平和

2014年8月15日 (金)

定点観測:特別な日のテレビ欄

定点観測:特別な日のテレビ欄

毎年、原爆の日、終戦記念日には、そのテレビ欄を記録している。
これまでのものも、
すずめ日記 でこれらの日をクリックするとどんなものがあったか、読める。

さて、戦後69回目の夏の日のテレビ欄。

意外にいろいろ力を込めた番組がある。
ニュースのタイトルには、概ね、終戦の日がトップにならぶ。
忘れない日にしたい。



NHKスペシャル シリーズ日本新生「戦後69年 いま“ニッポンの平和”を考える」 ウェブ検索
8/15 (金) 19:30 ~ 20:45 (75分) この時間帯の番組表
NHK総合・東京(Ch.1)
ドキュメンタリー/教養 - 社会・時事 , ドキュメンタリー/教養 - ドキュメンタリー全般 , ニュース/報道 - 報道特番
番組概要
戦後69年の終戦の日。戦争の惨禍を経験した日本、改めて平和について考える。番組独自の世論調査や市民の声も交え、生放送で徹底討論する。
番組詳細
戦後69年、日本を取りまく安全保障環境は激変している。今年7月、政府は集団的自衛権の行使容認を閣議決定。「積極的平和主義」のもと、日本の安全保障の新たな枠組みの構築をめざしている。2度と戦争の悲劇を繰り返さないと誓った戦後日本。21世紀に入り、世界の枠組みが大きく変貌する中で、日本の平和をどう守っていくべきなのか。生放送で徹底討論する。


大人ドリルスペシャル「戦争と平和」[字]
「8月15日は終戦の日」「日本は米国と戦った」それを知らない若者が増えている。これでいいのか日本人!そこで戦争に関するクイズを手掛かりに「戦争と平和」を考える。


ETV特集「“戦闘配置”されず~肢体不自由児たちの学童疎開~」[字][再]
太平洋戦争末期、約60万人の児童が都市から地方に集団で疎開した。しかし肢体不自由児はその対象から外される。それは一体なぜなのか。教師はどう子供たちを守ったのか。


金曜ロードSHOW!「硫黄島からの手紙」渡辺謙主演 家族に届けたかった想い…[字][デ]
5日で終わるとされた戦いを36日間戦い抜いた男たち。家族のために届けたかった想いとは…。名匠、クリント・イーストウッドが描く真実の物語。


世界の村で発見!こんなところに日本人 3時間スペシャル[字]
見えない運命の糸に導かれ異国で暮らす日本人…その人生ドラマSP▽戦後69年たった今なお、かつて日本だったサハリンに住む87歳女性▽世界最貧国!バングラデシュに僧侶が


ドラマチックα・ドラマスペシャル「はだしのゲン」<後編>[再][字][デ]
世界で読み継がれる名作がドラマ化。原爆の悲劇を乗り越え生きる親子の物語、完結! 中井貴一 石田ゆり子 小林廉 中尾明慶 成宮寛貴 りょう 山本學 ほか


金曜プレステージ・終戦記念スペシャルドラマ命ある限り戦え、そして生き抜くんだ[字] ウェブ検索
8/15 (金) 21:00 ~ 23:12 (132分) この時間帯の番組表
フジテレビ(Ch.8)
ドラマ - 国内ドラマ
番組概要
玉砕は認めない!生き抜くための秘策とは?激戦の地パラオで起きた70年前の知られざる真実▽上川隆也 溝端淳平 北乃きい 小林稔侍 ナビゲーター池上彰
番組詳細
太平洋戦争末期、パラオにある小さな島・ペリリュー島に、歩兵第二連隊の隊長・中川州男大佐(上川隆也)と若く血気盛んな伊藤正人少尉(溝端淳平)が降り立った。パラオは第一次世界大戦時にドイツ領だったものを日本が受け継ぎ、委任統治していた場所。このパラオにあるペリリュー島には、東洋最大と言われていた日本軍の大きな飛行場があり支援基地となっていた。この島をアメリカ軍から死守することが、日本全土を守ることへと

繋がる・・・。中川大佐は妻の光枝(木村多江)を日本に残し、後にアメリカ軍と70日以上に及ぶ激しい戦闘が繰り広げられることになったこの運命のぺリリュー島を任されたのだった・・・。ペリリュー島に向かう途中、パラオの首都コロールに滞在した中川大佐と伊藤少尉。2人は、女将・浜野八重子(仁科亜季子)が切り盛りする料亭“みね屋"で、芸者の小鈴(北乃きい)と出会う。空襲でコロールの街が焼けてしまった経緯もあり、

軍人を恨んでいた小鈴は、伊藤少尉に強く反発する。伊藤少尉は、小鈴と口げんかしながらも、小鈴の孤独な身の上を聞き、気にかけていた。そんな中、第二連隊がコロールからぺリリュー島に向かう直前、伊藤少尉は小鈴に内地へ戻る最後の船に乗るよう説得。しかし、船の乗り場に小鈴の姿はなかった・・・。

上川隆也  溝端淳平  北乃きい  加藤雅也  大杉漣  仁科亜季子  木村多江  小林稔侍  黒木瞳(語り)  池上彰(ナビゲーター)  他

【脚本】 阿相クミコ  【編成企画】 細貝康介  【プロデューサー】 中山和記(バンエイト)  後藤妙子(バンエイト)  【演出】 福本義人  【制作】 フジテレビ  【制作著作】 バンエイト



平和誓う 69回目の終戦記念日
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3010837

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この日の意味

この日の意味

69年前のこの日、何があったんだろう。
1945年の長い一年を考えてみる。
この年、こんなことがあった。

1月25日 最高戦争指導会議、決戦非常措置要綱を決定。 
2月4日 ルーズベルト、チャーチル、スターリン、ヤルタ会談。ソ連の対日参戦密約。

2月4日のヤルタ会談
この後、戦局は明らかになっていく。

3月6日 国民勤労動員令公布。 
3月9日 B29が東京を夜間大空襲。 
3月14日 大阪大空襲。 
3月17日 硫黄島の日本軍全滅。(戦死 23,000人) 
4月1日 米軍が沖縄本島に上陸。 
4月7日 鈴木貫太郎(海軍大将)内閣成立。 
4月7日 呉から沖縄に出撃の戦艦大和が九州南方で撃沈される。 
4月12日 ルーズベルト米大統領死去。副大統領トルーマンが昇格。 
4月16日 ソ連軍がベルリン攻撃開始(〜5月2日)。 

東京、大阪が空襲を受ける。
そして、ドイツが無条件降伏

5月7日 ドイツが連合国に無条件降伏。 
5月14日 最高戦争指導会議で、対ソ交渉方針決定(終戦工作始まる)。 
5月30日 ヒトラー自殺。 

私は、この日に注目したい。

6月8日 天皇臨席の最高戦争指導会議、本土決戦方針採択。

日本は、本土決戦をスローガンとすることになる。
少女たちが竹槍を持ち、
鬼畜米兵を殺す訓練を受ける。そういう時代。
皆、一丸となって、本当に信じていたからこそ、
藁人形を突いていたのだろう。

そして、ポツダム宣言

7月17日 トルーマン、チャーチル、スターリンがポツダム会談。
7月26日 ポツダム宣言発表。 

しかし、日本はこの2日後、
黙殺を表明

7月28日 鈴木首相、ポツダム宣言黙殺を表明。

そして、
 
8月6日 B29が広島に原子爆弾投下(死者約15万人)。 
8月9日 長崎に原子爆弾投下(死者約7万人)。 

さらに、
ソ連が参戦し、太平洋戦争は、第二次世界大戦へと変わる。

8月9日 ソ連が、日本のポツダム宣言拒否を理由に、対日宣戦布告。 

その翌日。

8月10日 政府が中立国スイス、スウェーデンを通じて米英中ソにポツダム宣言受諾を申し入れ。

日本は即座に反応した。
 
8月13日 御前会議・閣議が連合国の回答をめぐり紛糾。 
8月14日 天皇裁決で、ポツダム宣言の無条件受諾を決定。 

しかし、この間、
終戦に反対してのクーデターが起こる。そして、49年前の今日。

8月15日 天皇の「終戦の詔書」録音放送。日本が無条件降伏 鈴木内閣総辞職。 

もう、3月の時点で、
日本の敗戦は分かっていた。
5月にドイツが降伏した時点でも、分かっていた。
東京空襲の時に、なぜ、降伏できなかったか。

何よりも、なぜ、ポツダム宣言の後、
せめて1週間で降伏していれば、
広島、長崎は原爆に焼かれることは無かった。

今日、ネットではこんな記事が回っていた。
真偽の程は定かではない。
ググっても、出典は出てこない。
書いてあるのはどれも個人のブログだ。
http://sunmorinaga.area9.jp/article/0100563.html 
トルーマンを投げ飛ばした日本女性

そこから、ちょっと引用してみたい。トルーマンと林田民子氏なる女性との会話

「大統領閣下、なぜ広島、長崎に原爆を投下したのですか?」
「20万人を超える若いアメリカ兵の命を救うためです。」
「日本はすでに無条件降伏を決めていました。どうして20万人ものアメリカ兵が死ぬのでしょうか?」
「抗戦派の抵抗も考えられ、これ以上戦争を長引かせては、若いアメリカ兵の命が危ないと判断したからです。」
「大統領閣下、貴方は嘘を言われている。マリアナにある戦略爆撃司令部は、ポツダム宣言に対する返事があるまでは原爆の投下はあり得ない、と明言していました。」
「それは若いアメリカ兵20万人の命を・・・」
「大統領、貴方は日本が無条件降伏することをすでに知っていた。それなのになぜ原爆投下を命じたのですか?ヤルタ協定で日本に侵攻する予定のスターリンへの警告でしょう」
「そんなことはない。すべてアメリカ兵20万人の命を守るためだ」
「大統領、貴方には日本人の命などどうでもよかったのです。あの原爆投下によって20万人以上の人間が死傷することは、初めからわかっていたはずです。貴方が虫けら同然と思っている日本人が20万人死んでも、貴方にとっては問題ではない。人体実験をしたかっただけです。スターリンが警告を素直に受け取り、アメリカに逆らうとこの原爆がモスクワに落ちると・・・。ただそれだけのために20万人以上の日本人を犠牲にしたのです。20万人のアメリカ兵の命を守るためではない!大統領、貴方は今世紀最大の悪魔です」

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引用、ここまで。

この後、彼女は、トルーマンを背負い投げで投げ飛ばしたとある。
真偽は分からない。だが、原爆投下に関しては、今もある我々の言い分だ。

確かに、2月の時点で、概ね日本への原爆投下のシナリオは描かれていただろう。
そして、5月、ドイツがあっさり降伏したことによって、それはより、はっきりとした計画になる。
彼らは、ポツダム宣言を日本が無条件に受け入れるなんて、思っていない。
何日かかるか。それを計算し、日本が降伏する前に、最も効果的な時期を狙って、原爆を投下した。
そして、ソビエトがどう、参戦するかも、シナリオが組まれていた。

それは事実だろう。

だが、
日本にも、チョイスはあった。
というよりも、回避する鍵は日本が握っていた。

ポツダム宣言の後、
1週間で受諾すれば良かったのだ。

ポツダム宣言を黙殺し、
国民は黙々と本土決戦をスローガンに、
竹槍訓練をしていたのだ。
それが日本であり、私たちが忘れてはならないことだ。

もし、原爆投下までの流れが、
仕組まれたことで、日本には不可抗力だとすると、
落とした者だけが悪いことになる。
だが、本当に悪いのは、戦争、それ自体だ。
日本にも、回避できるチャンスも、方法もあった。
そのチャンスを捨ててしまうという、あやまちを犯した。

もう、二度と、
そんなあやまちは繰り替えさない。




平和誓う 69回目の終戦記念日
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2014年8月 9日 (土)

長崎:平和宣言の歴史

長崎の最初の平和宣言をみつけた。1948年。
「市民代表」となっている。

長崎平和宣言
1948年(昭和23年)
 わが長崎の地は、世界における原爆の基点として世界戦争に終止符を打った土地であって、この原爆の未曾有の惨禍を一転機として平和な明るい希望がもたらされた。
 その意味から長崎は世界的な地位において最も印象の深い土地であり、アトム長崎を再び繰り返すなと絶叫することによって、恒久的平和は確立するものと信じて疑わぬ。
 我々は、この文化祭の式典に当って、ノーモア・ナガサキを力強く標ぼうし、広く世界に宣明せんことを期し、ここに宣言す。

1948年(昭和23年) 8月9日
市民代表

この年、1948年は、ビキニ実験が行われ始めている。その中での長崎での核廃絶への叫び。
その意味や真摯な想い、リアリティは今とは全く違う。

つづいて、翌年は、

長崎平和宣言
1949年(昭和24年)
 長崎市は原子爆弾により世紀の戦争に終止符を打った世界戦史上明記され るべき都市である。長崎市民は、その悲惨苦を通じて戦争が全人類を破滅に導くことを信じ、長崎における原爆を最後として再び人類が戦争の脅威におののくこ とをなくし偉大なる原子力は世界平和のため人類の福祉に貢献せられんことを熱願するとともに、本日の祈念式典に当り国際文化の向上と恒久平和の理想達成を 目的とする国際文化都市建設法の精神に則り厳粛にして誠実なる世界平和の原動地として全世界に誇る文化と平和の象徴都市を建設せんことを宣言する。

1949年(昭和24年) 8月9日
長崎市長 大橋 博

宣言は長崎市長となっている。

しかし、この翌年、1950年には平和宣言は行われていない。
1950年といえば、朝鮮戦争の年だ。
そして、翌年は平和推進市民大会によるものになっている。

長崎平和宣言
1951年(昭和26年)
 われら日本民族は過去半世紀帝国主義的侵略を行い武力をもってアジアの隣国を侵してきたのであるが、近代兵器の最高峰、原子爆弾によって戦争は終止符をうたれたのであった。われら長崎市民は広島の同胞と共に、日本の犠牲となり、世界の試験台となったのである。
 嗚呼、恐ろしい想い出の日が六度巡ってきた。8月9日午前11時2分、原子爆弾の一瞬によってわれわれの親兄弟妻子の尊い血潮がこの長崎の地を紅に染め上げた。
 この尊い体験、あまりにも高価な犠牲の体験から今やわれわれは大胆素直に戦争絶対反対を叫び、平和日本憲法を守り、原子力を平和の手にする猛運動を巻き起こし、人類の平和維持のために闘はんとするものである。
 平和はあくまでも平和的手段によってのみ生れ出る。
 この故われわれは相対立する国家群をはじめ、何れの国々とも友好関係を促進し、一方的講和条約をしりぞけすべての交戦国と等しく和解の講和を締結し、恒久平和を推進していかねばならない。
 原爆の地長崎より平和を絶叫するわれわれの雄叫びは必ず大きな流れとなり日本のみならず世界各国のすみずみまで流れほとばしるであろう。
  ここにわれわれは再びあのいまわしい8月9日の惨状を再現させないために平和を祈念するあらゆる民主的諸団体ならびに宗教諸団体が相提携し、世人の良心に 訴え世論をかん起し、固い団結をもって25万市民が打って一丸となり、平和運動を推進し全人類の繁栄のために闘うことを宣言するものである。

1951年(昭和26年) 8月9日
平和推進市民大会


この年、サンフランシスコ講和条約の調印が9月8日に行われている。
「この故われわれは相対立する国家群をはじめ、何れの国々とも友好関係を促進し、一方的講和条約をしりぞけすべての交戦国と等しく和解の講和を締結し、」ということであったのだろう。

そして、その翌年から、毎年、今に至るまで、市長によって平和宣言は行われてきた。
私の個人的なイメージでは、広島と長崎の市長は特別。。。平和宣言を行うのだから。というイメージがある。だから、長崎市長が襲撃された時もショックだった。


長崎平和宣言
1952年(昭和27年)
 今や世界は、冷たい戦争の様を呈し、再び戦争への不安感をつのらしているが、わが国は独立国として、平和憲法のもと、世界の恒久平和に貢献せんと決意している。
  わが長崎市民は原爆の悲惨苦を身を以って体験し、原爆戦による惨禍が人類の一大破滅を招来することを恐れるが故に、原爆7周年の記念日を迎えて人類愛と文 化の交流を基調とする国際親善をはかり、国際間の紛争防止に努め、以って世界平和の悲願を達成せんことを全世界に向かって茲に宣言する。

1952年(昭和27年) 8月9日
長崎市長 田川 務


長い歴史の中、いろいろなことがあるわけだが、
一つ、興味深い事を見つけた。

長崎平和宣言
1962年(昭和37年)
 長崎市に原爆が投下されて以来17か年、われら長崎市民は、平和推進の 使徒たらんとして、ひたすら世界恒久平和実現の祈りをささげ諸国民にそれを訴え続けてきたのである。しかるに期待に反し、流血の惨、世界の各地にそのあと を絶たず、またしきりに核兵器の増強を伝え、人類の危機感が醸成されつつあることは、まことに遺憾に堪えない。
 長崎市民は自ら体験した原爆の威力とその被害と悲惨、きょうに続く業苦にかんがみ、人道の名において原水爆の廃棄を強く訴え、更に一切の戦争をこの地上より排除すべく、諸国家が融和、強調することを切願する。
 長崎市民は、えい知と正義と愛とが変わりなく人類総てのものであることを信じ、世界恒久平和の実現のため新たなる決意を固め、一意てい身することを誓う。
 ここにこれを宣言する。

1962年(昭和37年) 8月9日
長崎市長 田川 務

1962年の平和宣言である。1962年と言えば、キューバ危機である。しかし、キューバ危機は10月14日からの2週間。この平和宣言の時は、まだ、始まっていない。が、このころ、世界の「終末時計」は着実に針を進めつつあった。そんな中での世界への危機感だったのだろう。

もうひとつ、興味深い変化がある。
言葉の 常体から敬体への変化だ。
(本当にそれでスピーチされたのかどうかは分からないが、記録としては、この形になっている)

1980年と1981年。この年を境に、以後、今に至るまで、敬体での宣言になっている。

長崎平和宣言
1980年(昭和55年)
 昭和20年8月9日。長崎市は人類の想像を絶する焦熱地獄と化し、7万有余の尊い生命が奪われた。
 あれから35年、いまもなお、数多くの被爆者が後遺症に苦しみ、死の影におびえ続けている。
 戦争の惨禍を受けた国民が歳月の流れとともにその精神的・肉体的痛みが薄れつつあるとき、被爆者の苦悩は深まり、激しくなっている。
 いまここに、被爆者、遺族、青少年はじめ、市民、国内外の人々が相集い、原爆によって死亡した方々のみ霊の前にぬかずき、心からその霊を慰め、ごめい福をお祈りした。
 われわれは、原爆のためにたおれた肉親や隣人の悲しみと恨み、平和への願いを深く心に刻んでいなければならない。
 後世の史家は、必ずや、原爆投下の残酷さを20世紀最大の汚点の一つに数えるであろう。
 長崎市民は原爆の悲しみと憤りの中から立ち上がって、核兵器の廃絶と全面軍縮とを訴え続ける義務と責任、そして使命感を持つものである。
 思えば、いまやかすかにさしそめた国際間の緊張緩和の曙光さえかき消され、核兵器開発競争はますます激しさを加え、今年の核実験の回数は昨年をはるかに超えた。長崎市がこの11年にわたって行ってきた188回の核実験への抗議は、完全に踏みにじられてきた。
 核保有国は、戦争抑止力という名のもとに、核武装の強化をはかりつつある。
 いま、この危険な方向を転換しない限り、地球上に真の平和と繁栄はあり得ないことを確信する。世界に蓄積された膨大な核兵器は人類を幾たびも絶滅させ得る量に達しており、技術的、管理的ミスによる核戦争偶発の危険性も強まっている。
 人類は、滅亡の道を歩もうというのか。
 時は迫っている。
 世界の良心はいまこそ、ナガサキの声に耳を傾け、英知に目覚め、核兵器の廃絶と戦争の完全放棄を実現するために、行動と実践に立ち上がらなければならない。
 被爆体験の継承は、長崎・広島両市民にとどまらず、国民の、いな全人類の課題として協力に推進すべきである。
 いまや、真の平和の実現のため、人々は国境を越え、信教・信条を越えて、必死の努力を払っていくべきときである。
 われわれは、ここに、日本国政府が核兵器の完全禁止と全面軍縮への決意を新たにし、国家補償の精神に基づき被爆者援護対策の確立をはかるよう強く訴える。
 ここに、原爆犠牲者のごめい福を祈り、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向かって直進することを、全市民の名において内外に宣言する。

1980年(昭和55年) 8月9日
長崎市長 本島 等


長崎平和宣言
1981年(昭和56年)
 長崎の皆さん、日本全国の皆さん、そして全世界の皆さん。
 きょう8月9日は、悲しい長崎原爆の日です。
 私たちは、原爆で亡くなられた数多くのみ霊のごめい福を祈り、またいまなお後遺症で苦しむ被爆者を励ますために、そして再び世界に核戦争を起させないことを誓うために、この原爆の丘に集まりました。
  年老いた被爆者、被爆者の2世・3世、遺族、小中高生、市民、そして全国から、また外国からたくさんの皆さんが参列して、花を供え、水を献じて、鎮魂と平 和への決意を新たにしています。式典に参列できない寝たきりの方、一人ぼっちの方も、手を合わせてお祈りしていることでしょう。
 いまわしいあの焦熱地獄が、きのうのことのように思われます。悪魔のような熱線・爆風・放射線は、親兄弟も、親しい友達も、隣人も、そして長崎にいた外国人の命も一瞬のうちに奪い、幼稚園・学校・会社・商店・工場は、廃墟となりました。
 あれから36年、被爆者の悲痛の叫び声は押しつぶされ、原爆の悲惨さ、その傷跡も忘れ去られようとしており、戦争そのものが風化しつつあります。
私の声の届く限りのすべての皆さんに申し上げます。8月9日を心に刻んでください。私たちは、国家補償による被爆援護の確立を要求し続けております。
 特に孤独・老齢化が進み、死を目前にした被爆者の実情に、国民の深い理解と協力をお願いします。
 社会の担い手も、戦争の経験のない若い世代に代わりつつあります。これらの人々に「原爆の悲惨さ残酷さをどう伝えるか。」「80年代の平和へのエネルギーをどうかもし出させるか。」これが、私たちに負わされた課題といえましょう。
 そこで、特に、教育者の皆さんにお願いしたい。
 核兵器をなくし、完全軍縮の実現こそが、人類が未来に生き残る唯一の道であることを、子供たちに、すべてに優先して教えて欲しい。平和こそ、私たちが子孫に残すただ一つの遺産なのです。
  世界の人々の平和を求める声は強く、1978年の国連軍縮特別総会でも多くの国々の関心が高まり、また、本年2月来日したローマ法王ヨハネ・パウロ2世 は、平和アピールの中で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことだ。」と指摘し、全世界に平和の力強い叫びとして伝えられました。
 しかし、いつまで続くのか。核兵器の拡大競争と核兵器を持つ国の増加は、恐怖の均衡のもとに破滅へ向かう絶望の世界と言えないでしょうか。
 核兵器を造る国々の人々に訴えます。私たちは、今まさに、人類滅亡の淵に立っております。核兵器の生産をやめ、その費用の一部を使えば、世界各地の数億人の飢えと、第三世界の貧困は解消されるでしょう。
次に考えなければならないのは、日本の国是としての非核三原則の一つ『核兵器を持ち込ませず』が揺らいでいることです。今日核の寄港、通過があったと信じている多くの人々の声に耳を傾けてください。
鈴木総理大臣は、直ちにこのことに対処して真実を国民に知らせてください。
 廃墟の中、絶望と飢えに耐えながら、戦争放棄と永久の平和確立を誓った日本国憲法の精神を思い起し、将来にわたって核兵器の廃絶、完全軍縮、恒久平和を国是として積極的に外交を進め、決してどの国をも敵視しない国の方針を打ち立ててください。
 また、来年の第2回国連軍縮特別総会に向けて、世論を高め、対策を練り、実り多い結果をもたらすよう努力してください。
 特に、第1回国連軍縮特別総会の行動提起に従って、日本本土とその周辺を非核武装地帯とすることを宣言してください。
 ここに、被爆36周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を迎え、重ねて原爆殉難者のごめい福と原爆後遺症に苦しむ生存被爆者の健康と平安とをお祈りするとともに、世界恒久平和の実現に向かって直進することを、全市民の名において内外に宣言します。

1981年(昭和56年) 8月9日
長崎市長 本島 等

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長崎の平和宣言への歴史。
興味深い。

今日、8月9日

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歴史を作った人たち

歴代首相の中で最初に広島の平和式典に出席したのは、佐藤栄作。
この時、この出席を反対して、ものすごいデモがあったそうだ。

以後、出席しない総理もいた。

挨拶文はその時々でいろんな背景を持っているだろうが、
最も重要なのは、
首相が列席するという事だ。

でも8月のこの日だけは、最優先にして、他の予定を入れて欲しく無いね。他所の国でサミットが開かれるってことがあっても、この日だけは外せないんだって、断る位であってほしい。
http://mainichi.jp/feature/nostalgicnews/news/20130806dog00m040055000c.html 

【1971年8月6日】原爆忌 佐藤首相が現職として初出席 反対派のデモも
2013年08月06日
現職首相として初めて平和祈念式典に出席した佐藤栄作首相
現職首相として初めて平和祈念式典に出席した佐藤栄作首相
 1971年8月6日、26回目の広島原爆記念日に佐藤栄作首相が現職首相として初めて式典に出席。佐藤首相出席阻止を叫ぶ反対派が会場になだれ込み、周辺ではデモが繰り返されるなど異様な雰囲気に包まれた。(毎日新聞デジタル

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平和祈念式典: 長崎の意味

長崎の意味

6日の日記に載せたように、

広島の松井市長による平和宣言では、集団的自衛権の問題には触れられていなかった。

しかし、長崎は違う。

安倍首相が列席している中、田上市長はズバリと指摘している。

それだけではない。被爆者代表の城臺美彌子氏の言葉の中でも、これだけでなく、政治的コンフリクトを持つ問題が、はっきりと、言い切られている。

以下、平和宣言と、城臺美彌子氏のスピーチの中から、いくつかの文言を書き出しておきたい。

> いまわが国では、集団的自衛権の議論を機に、「平和国家」としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。

しかし、現在の日本政府はその役割を果たしているのでしょうか。今進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です。

日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。一旦戦争が始まると、戦争が戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか。

このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。早急に廃炉を検討して下さい。

------

コンフリクトを避けて、ひたすら、平和への想いをつなげてゆこうとする広島

平和への自分たちの想いを主張していこうとする長崎

両方のスタンスは、正しい。

この二つが存在することは、非常に意味のあることだと思う。

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以下、長崎市長、平和宣言

首相挨拶

被爆者代表 城臺美彌子氏スピーチ 全文

(今の時点で、国連HPによるメッセージの配信は公開されていない。)

平成26年長崎平和宣言

 69年前のこの時刻、この丘から見上げる空は真っ黒な原子雲で覆われていました。米軍機から投下された一発の原子爆弾により、家々は吹き飛び、炎に包まれ、黒焦げの死体が散乱する中を多くの市民が逃げまどいました。凄まじい熱線と爆風と放射線は、7万4千人もの尊い命を奪い、7万5千人の負傷者を出し、かろうじて生き残った人々の心と体に、69年たった今も癒えることのない深い傷を刻みこみました。

 今も世界には1万6千発以上の核弾頭が存在します。核兵器の恐ろしさを身をもって知る被爆者は、核兵器は二度と使われてはならない、と必死で警鐘を鳴らし続けてきました。広島、長崎の原爆以降、戦争で核兵器が使われなかったのは、被爆者の存在とその声があったからです。

 もし今、核兵器が戦争で使われたら、世界はどうなるのでしょうか。

 今年2月メキシコで開かれた「核兵器の非人道性に関する国際会議」では、146か国の代表が、人体や経済、環境、気候変動など、さまざまな視点から、核兵器がいかに非人道的な兵器であるかを明らかにしました。その中で、もし核戦争になれば、傷ついた人々を助けることもできず、「核の冬」の到来で食糧がなくなり、世界の20億人以上が飢餓状態に陥るという恐るべき予測が発表されました。

 核兵器の恐怖は決して過去の広島、長崎だけのものではありません。まさに世界がかかえる“今と未来の問題”なのです。

 こうした核兵器の非人道性に着目する国々の間で、核兵器禁止条約などの検討に向けた動きが始まっています。

 しかし一方で、核兵器保有国とその傘の下にいる国々は、核兵器によって国の安全を守ろうとする考えを依然として手放そうとせず、核兵器の禁止を先送りしようとしています。

 この対立を越えることができなければ、来年開かれる5年に一度の核不拡散条約(NPT)再検討会議は、なんの前進もないまま終わるかもしれません。

 核兵器保有国とその傘の下にいる国々に呼びかけます。

 「核兵器のない世界」の実現のために、いつまでに、何をするのかについて、核兵器の法的禁止を求めている国々と協議ができる場をまずつくり、対立を越える第一歩を踏み出してください。日本政府は、核兵器の非人道性を一番理解している国として、その先頭に立ってください。

 核戦争から未来を守る地域的な方法として「非核兵器地帯」があります。現在、地球の陸地の半分以上が既に非核兵器地帯に属しています。日本政府には、韓国、北朝鮮、日本が属する北東アジア地域を核兵器から守る方法の一つとして、非核三原則の法制化とともに、「北東アジア非核兵器地帯構想」の検討を始めるよう提言します。この構想には、わが国の500人以上の自治体の首長が賛同しており、これからも賛同の輪を広げていきます。

 いまわが国では、集団的自衛権の議論を機に、「平和国家」としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。

 長崎は「ノーモア・ナガサキ」とともに、「ノーモア・ウォー」と叫び続けてきました。日本国憲法に込められた「戦争をしない」という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。

 被爆者たちが自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。日本政府にはこの不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます。

 長崎では、若い世代が、核兵器について自分たちで考え、議論し、新しい活動を始めています。大学生たちは海外にネットワークを広げ始めました。高校生たちが国連に届けた核兵器廃絶を求める署名の数は、すでに100万人を超えました。

 その高校生たちの合言葉「ビリョクだけどムリョクじゃない」は、一人ひとりの人々の集まりである市民社会こそがもっとも大きな力の源泉だ、ということを私たちに思い起こさせてくれます。長崎はこれからも市民社会の一員として、仲間を増やし、NGOと連携し、目標を同じくする国々や国連と力を合わせて、核兵器のない世界の実現に向けて行動し続けます。世界の皆さん、次の世代に「核兵器のない世界」を引き継ぎましょう。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故から、3年がたちました。今も多くの方々が不安な暮らしを強いられています。長崎は今後とも福島の一日も早い復興を願い、さまざまな支援を続けていきます。

 来年は被爆からちょうど70年になります。

 被爆者はますます高齢化しており、原爆症の認定制度の改善など実態に応じた援護の充実を望みます。

 被爆70年までの一年が、平和への思いを共有する世界の人たちとともに目指してきた「核兵器のない世界」の実現に向けて大きく前進する一年になることを願い、原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、広島市とともに核兵器廃絶と恒久平和の実現に努力することをここに宣言します。

2014年(平成26年)8月9日

長崎市長 田上 富久

首相挨拶

 本日、被爆69周年、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。

 今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。

 69年前の本日、一発の爆弾が、7万を上回る、貴い命を奪いました。12万人が暮らしていた家屋を全焼、全壊し、生き長らえた方々に、病と障害の、さらには生活上の、言葉に尽くせぬ苦難を強いました。

 一度ならず、二度までも被爆の辛酸を嘗めた私たちは、にもかかわらず、苦しみ、悲しみに耐え立ち上がり、祖国を再建し、長崎を、美しい街として蘇らせました。

 今日は、犠牲になった方々の御霊を慰めるとともに、先人たちの奮闘と、達成に、感謝を捧げる日でもあります。

 人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には、確実に、「核兵器のない世界」を実現していく責務があります。

 その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。

 私は、昨年、国連総会の「核軍縮ハイレベル会合」において、「核兵器のない世界」に向けての決意を表明しました。我が国が提出した核軍縮決議は、初めて100を超える共同提案国を得て、圧倒的な賛成多数で採択されました。包括的核実験禁止条約の早期発効に向け、関係国の首脳に直接、条約の批准を働きかけるなど、現実的、実践的な核軍縮を進めています。

 本年4月には、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、広島で開催し、被爆地から我々の思いを、力強く発信しました。

 来年は、被爆から70年目という節目の年であり、5年に一度の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議が開催されます。「核兵器のない世界」を実現するための取組を、さらに前に進めていきます。

 今なお被爆による苦痛に耐え、原爆症の認定を待つ方々がおられます。昨年末には、3年に及ぶ関係者の方々のご議論を踏まえ、認定基準の見直しを行いました。多くの方々に一日でも早く認定が下りるよう、今後とも誠心誠意努力してまいります。

 長崎の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、旧に倍する努力を傾けていくことをお誓い申し上げます。

 結びに、いま一度、犠牲になった方々の御冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。

平成二十六年八月九日

内閣総理大臣・安倍晋三

1945年6月半ばになると、1日に何度も警戒警報や、空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時6歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。

8月9日の朝、ようやく目が覚めた頃、あのサイレンが鳴りました。「空襲警報よ、はよ山まで行かんば」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕へ登りました。

爆心地から2.4キロの地点、金比羅山中腹にある、現在の長崎中学校校舎の真裏でした。

しかし、敵機は来ず「空襲警報解除」の声で多くの市民や子どもたちは、「今のうち」と防空壕を飛び出しました。その頃、原爆搭載機B29が長崎上空へ深く侵入していたのです。

私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。おとなりの同級生、トミちゃんが、「みやちゃーん、遊ぼう」と外から呼びました。

その瞬間、キラッ!と光りました。

その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えておりません。暫く経って、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんは、その時何の怪我もしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。

たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなる。たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で、多くの被爆者が命を落としていきました。

私自身には何もなかったのですが、被曝三世である幼い孫娘を亡くしました。私が被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。

原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは、人間の力ではどうすることもできません。

今強く思うことは、この恐ろしい、非人道的な核兵器を、世界から一刻も早く、なくすことです。

そのためには核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。

しかし、現在の日本政府はその役割を果たしているのでしょうか。今進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です。

日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。一旦戦争が始まると、戦争が戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか。

日本の未来を担う若者や、子どもたちを脅かさないで下さい。平和の保障をしてください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないで下さい。

福島には、原発事故の放射能汚染で、未だ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。小児甲状腺がんの宣告を受けて、怯え苦しんでいる親子もいます。

このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。早急に廃炉を検討して下さい。

被爆者は、サバイバーとして残された時間を命がけで語り継ごうとしています。小学1年生も、保育園生さえも、私たちの言葉をじっと聞いてくれます。

このこと、子どもたちを、戦場へ送ったり、戦火に巻き込ませてはならないという思い、いっぱいで語っています。

長崎市民の皆さん、いいえ、世界中のみなさん。再び、愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被曝の実相を語り継いで下さい。

日本の真の平和を求めて、共に歩きましょう。私も被爆者の一人として、力の続く限り、被爆体験を伝え残していく決意を、皆様にお伝えして、私の平和への誓と致します。

平成26年8月9日 被爆者代表 城臺美彌子

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長崎原爆の日:テレビ欄、定点観測

毎年、この日のテレビ欄に注目している。
今年の広島原爆の日には、殆ど何も特番は無かった。

今日は、土曜日であるからか、
2本、入っている。

NHK特集の方は、興味深い。
文言に「真相」という言葉が使われているとすると、
今まで流されていなかったことなのだろうか。




平成26年 長崎平和祈念式典[二][字]
原爆犠牲者の追悼とともに、核兵器廃絶と戦争のない世界の実現を訴えてきた「長崎平和祈念式典」。被爆69年目の夏、式典会場を含む長崎市内3か所から中継で伝える。

報道特集[字]「笹井氏自殺・長崎原爆映像」
STAP論文問題でついに死者が出た。笹井氏自殺が問うものは?▽長崎原爆の瞬間映像を最新デジタル処理。見えてきた悲劇の瞬間。


NHKスペシャル「知られざる衝撃波〜長崎原爆・マッハステムの脅威〜」
2014/08/09 22:00〜2014/08/09 22:50(NHK総合)
地上デジタル(1)ドキュメンタリー・ルポタージュ
長崎原爆・謎の衝撃波その爆風の正体に迫る▽計画された大量破壊米極秘文書が語る真相▽69年遺族の思い 69年前、長崎を襲った原子爆弾。爆心地から500メートル地点で何が起きていたのか、その衝撃と長崎原爆の破壊メカニズムを分析する。昨年、長崎原爆の破壊力を解明する手掛かりが見つかった。原爆投下直後に長崎入りした学術調査団が残した約30点の写真。着目しているのは爆心直下ではなく、爆心地の500メートル先の地点だ。そこでは突如、爆風の威力を増幅させる圧力波「マッハ・ステム」が立ち上がり、破壊力を増した爆風がドーナツ状に壊滅的な被害を広げていく様子を捉えていた。爆心地の西500メートルにあった旧城山国民学校を写した1枚は、鉄筋コンクリート建ての校舎が湾曲し、厚いコンクリート壁が跡形もなく粉砕されている。新たに発掘した写真や証言記録などを基に、130人以上が亡くなった旧城山国民学校の惨状をコンピューターグラフィックス(CG)で再現し、そこで何が起きていたのかを探る。

ETV特集「“戦闘配置”されず〜肢体不自由児たちの学童疎開〜」
2014/08/09 23:00〜2014/08/09 24:00(NHK Eテレ)
地上デジタル(2)ドキュメンタリー・ルポタージュ
太平洋戦争末期、学童疎開から取り残された肢体不自由の子供たち▽校長の闘い・自力で探せ受け入れ先▽生き延びた子供たち今語る 太平洋戦争末期の肢体不自由児たちの知られざる学童疎開を伝える。東京都立光明特別支援学校では、数年前から古い文書や撮影フィルムが発見されている。戦中から戦後にかけて校長を務めた故松本保平さんが残した手記には、肢体不自由児たちの境遇をめぐるさまざまな出来事と思いがつづられていた。国による学童疎開の対象から外された不安と憤り。仕方なく校庭に防空壕(ごう)を掘り、都心部から通う子供たちと教師が校舎で避難生活を送ったこと。それを他校の教員から非難され、子供たちを非国民扱いされた屈辱。そして、自力で疎開先探しに奔走した苦労などが生々しく書かれている。手記や記録フィルム、卒業生たちの証言から、肢体不自由児たちの生きた戦争を見詰める。

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2014年8月 6日 (水)

少しずつ平和:駐日大使のスタンス

さて、今回、ちょい、勘違いしたことがあった。

ネットの動画を見ていて、
キャロライン ケネディ駐日大使がスピーチをしているというのを、見つけたのだった。
いかにも、顔が違うんだけど、ボケボケの動画だし、黒い髪は帽子かぶってるのかな。。。と。

そうしたら、やっぱり、間違いだった。
毎年、国連のスピーチは代読されるんだけど、去年も女性。
今年もそうだったんだった。

ケネディ駐日大使は、列席したけど、コメントも残さなかった。

あは。
期待しすぎてた。
彼女のおじさん、エドワードケネディは、世界で初めて核不拡散っぽい条約を実現させた人。
彼女もかつて、一緒に広島を訪問している。
だから、きっと、スピーチするに違い無い!っていうか、して欲しい。
っていう、願望が。。。
みんな同じように期待しちゃってたんだろう。
ネットにアップした人も、同じ事考えて、っていうか考えすぎて、
フライングしちゃったと見える。

まあ、残念と言えば残念だけど。
でも、今、例の集団的自衛権関連の問題がある中、
かなりデリケートな背景がある。
広島は今までのスタンスから、この問題に触れて来ないかもしれないけど、
長崎は、きっと言うに決まってる。
余分な軋轢を作ってしまわない方が良い。
やるなら、来年、70周年にする手もある。
パンギムンがそうであったように。

と、好意的に解釈したい。
そう、平和を望むのだから。
性善説からしか、真の平和は生まれない。
人は、皆、平和を望んでいると、
私は確信してる。

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平和への言葉2014:平和宣言 国連事務総長メッセージ、首相挨拶、子ども代表平和への誓い

広島平和式典 2014
平和宣言

広島市は毎年8月6日に、原爆死没者への追悼とともに核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願って平和記念式典を行い、広島市長が「平和宣言」を世界に向けて発表しています。広島・長崎の悲惨な体験を再び世界の人々が経験することのないよう、核兵器をこの地球上からなくし、いつまでも続く平和な世界を確立しようと、これからも平和宣言は訴え続けていきます。

平和宣言

被爆69年の夏。灼(や)けつく日差しは「あの日」に記憶の時間(とき)を引き戻します。1945年8月6日。一発の原爆により焦土と化した広島では、幼子(おさなご)からお年寄りまで一日で何万という罪なき市民の命が絶たれ、その年のうちに14万人が亡くなりました。尊い犠牲を忘れず、惨禍を繰り返さないために被爆者の声を聞いてください。

建物疎開作業で被爆し亡くなった少年少女は約6,000人。当時12歳の中学生は、「今も戦争、原爆の傷跡は私の心と体に残っています。同級生のほとんどが即死。生きたくても生きられなかった同級生を思い、自分だけが生き残った申し訳なさで張り裂けそうになります。」と語ります。辛うじて生き延びた被爆者も、今なお深刻な心身の傷に苦しんでいます。

「水を下さい。」瀕死の声が脳裏から消えないという当時15歳の中学生。建物疎開作業で被爆し、顔は焼けただれ、大きく腫れ上がり、眉毛(まゆげ)や睫毛(まつげ)は焼け、制服は熱線でぼろぼろとなった下級生の懇願に、「重傷者に水をやると死ぬぞ。」と止められ、「耳をふさぐ思いで水を飲ませなかったのです。死ぬと分かっていれば存分に飲ませてあげられたのに。」と悔やみ続けています。

あまりにも凄絶(せいぜつ)な体験ゆえに過去を多く語らなかった人々が、年老いた今、少しずつ話し始めています。「本当の戦争の残酷な姿を知ってほしい。」と訴える原爆孤児は、廃墟の街で、橋の下、ビルの焼け跡の隅、防空壕などで着の身着のままで暮らし、食べるために盗みと喧嘩を繰り返し、教育も受けられずヤクザな人々のもとで辛うじて食いつなぐ日々を過ごした子どもたちの暮らしを語ります。

また、被爆直後、生死の境をさまよい、その後も放射線による健康不安で苦悩した当時6歳の国民学校1年生は「若い人に将来二度と同じ体験をしてほしくない。」との思いから訴えます。海外の戦争犠牲者との交流を通じて感じた「若い人たちが世界に友人を作ること」「戦争文化ではなく、平和文化を作っていく努力を怠らないこと」の大切さを。

子どもたちから温かい家族の愛情や未来の夢を奪い、人生を大きく歪めた「絶対悪」をこの世からなくすためには、脅し脅され、殺し殺され、憎しみの連鎖を生み出す武力ではなく、国籍や人種、宗教などの違いを超え、人と人との繋がりを大切に、未来志向の対話ができる世界を築かなければなりません。

ヒロシマは、世界中の誰もがこのような被爆者の思いを受け止めて、核兵器廃絶と世界平和実現への道を共に歩むことを願っています。

人類の未来を決めるのは皆さん一人一人です。「あの日」の凄惨(せいさん)を極めた地獄や被爆者の人生を、もしも自分や家族の身に起きたらと、皆さん自身のこととして考えてみてください。ヒロシマ・ナガサキの悲劇を三度繰り返さないために、そして、核兵器もない、戦争もない平和な世界を築くために被爆者と共に伝え、考え、行動しましょう。

私たちも力を尽くします。加盟都市が6,200を超えた平和首長会議では世界各地に設けるリーダー都市を中心に国連やNGOなどと連携し、被爆の実相とヒロシマの願いを世界に拡げます。そして、現在の核兵器の非人道性に焦点を当て非合法化を求める動きを着実に進め、2020年までの核兵器廃絶を目指し核兵器禁止条約の交渉開始を求める国際世論を拡大します。

今年4月、NPDI(軍縮・不拡散イニシアティブ)広島外相会合は「広島宣言」で世界の為政者に広島・長崎訪問を呼び掛けました。その声に応え、オバマ大統領をはじめ核保有国の為政者の皆さんは、早期に被爆地を訪れ、自ら被爆の実相を確かめてください。そうすれば、必ず、核兵器は決して存在してはならない「絶対悪」であると確信できます。その「絶対悪」による非人道的な脅しで国を守ることを止め、信頼と対話による新たな安全保障の仕組みづくりに全力で取り組んでください。

唯一の被爆国である日本政府は、我が国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増している今こそ、日本国憲法の崇高な平和主義のもとで69年間戦争をしなかった事実を重く受け止める必要があります。そして、今後も名実ともに平和国家の道を歩み続け、各国政府と共に新たな安全保障体制の構築に貢献するとともに、来年のNPT再検討会議に向け、核保有国と非核保有国の橋渡し役としてNPT体制を強化する役割を果たしてください。また、被爆者をはじめ放射線の影響に苦しみ続けている全ての人々に、これまで以上に寄り添い、温かい支援策を充実させるとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう求めます。

今日ここに、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、「絶対悪」である核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向け、世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。


PEACE DECLARATION

Summer, 69 years later. The burning sun takes us back to “that day.” August 6, 1945. A single atomic bomb renders Hiroshima a burnt plain. From infants to the elderly, tens of thousands of innocent civilians lose their lives in a single day. By the end of the year, 140,000 have died. To avoid forgetting that sacred sacrifice and to prevent a repetition of that tragedy, please listen to the voices of the survivors.

Approximately 6,000 young boys and girls died removing buildings for fire lanes. One who was a 12-year-old junior high student at the time says, “Even now, I carry the scars of war and that atomic bombing on my body and in my heart. Nearly all my classmates were killed instantly. My heart is tortured by guilt when I think how badly they wanted to live and that I was the only one who did.” Having somehow survived, hibakusha still suffer from severe physical and emotional wounds.

“Water, please.” Voices from the brink of death are still lodged in the memory of a boy who was 15 and a junior high student. The pleas were from younger students who had been demolishing buildings. Seeing their badly burned, grotesquely swollen faces, eyebrows and eyelashes singed off, school uniforms in ragged tatters due to the heat ray, he tried to respond but was stopped. “‘Give water when they’re injured that bad and they’ll die, boy,’ so I closed my ears and refused them water. If I had known they were going to die anyway, I would have given them all the water they wanted.” Profound regret persists.

People who rarely talked about the past because of their ghastly experiences are now, in old age, starting to open up. “I want people to know the true cruelty of war,” says an A-bomb orphan. He tells of children like himself living in a city of ashes, sleeping under bridges, in the corners of burned-out buildings, in bomb shelters, having nothing more than the clothes on their backs, stealing and fighting to eat, not going to school, barely surviving day to day working for gangsters.

Immediately after the bombing, a 6-year-old first grader hovered on the border between life and death. Later, she lived a continual fearful struggle with radiation aftereffects. She speaks out now because, “I don’t want any young people to go through that experience.” After an exchange with non-Japanese war victims, she decided to convey the importance of “young people making friends around the world,” and “unceasing efforts to build, not a culture of war, but a culture of peace.”

The “absolute evil” that robbed children of loving families and dreams for the future, plunging their lives into turmoil, is not susceptible to threats and counter-threats, killing and being killed. Military force just gives rise to new cycles of hatred. To eliminate the evil, we must transcend nationality, race, religion, and other differences, value person-to-person relationships, and build a world that allows forward-looking dialogue.

Hiroshima asks everyone throughout the world to accept this wish of the hibakusha and walk with them the path to nuclear weapons abolition and world peace.

Each one of us will help determine the future of the human family. Please put yourself in the place of the hibakusha. Imagine their experiences, including that day from the depths of hell, actually happening to you or someone in your family. To make sure the tragedies of Hiroshima and Nagasaki never happen a third time, let’s all communicate, think and act together with the hibakusha for a peaceful world without nuclear weapons and without war.

We will do our best. Mayors for Peace, now with over 6,200 member cities, will work through lead cities representing us in their parts of the world and in conjunction with NGOs and the UN to disseminate the facts of the bombings and the message of Hiroshima. We will steadfastly promote the new movement stressing the humanitarian consequences of nuclear weapons and seeking to outlaw them. We will help strengthen international public demand for the start of negotiations on a nuclear weapons convention with the goal of total abolition by 2020.

The Hiroshima Statement that emerged this past April from the ministerial meeting of the NPDI (Non-Proliferation and Disarmament Initiative) called on the world’s policymakers to visit Hiroshima and Nagasaki. President Obama and all leaders of nuclear-armed nations, please respond to that call by visiting the A-bombed cities as soon as possible to see what happened with your own eyes. If you do, you will be convinced that nuclear weapons are an absolute evil that must no longer be allowed to exist. Please stop using the inhumane threat of this absolute evil to defend your countries. Rather, apply all your resources to a new security system based on trust and dialogue.

Japan is the only A-bombed nation. Precisely because our security situation is increasingly severe, our government should accept the full weight of the fact that we have avoided war for 69 years thanks to the noble pacifism of the Japanese Constitution. We must continue as a nation of peace in both word and deed, working with other countries toward the new security system. Looking toward next year’s NPT Review Conference, Japan should bridge the gap between the nuclear-weapon and non-nuclear-weapon states to strengthen the NPT regime. In addition, I ask the government to expand the “black rain areas” and, by providing more caring assistance, show more compassion for the hibakusha and all those suffering from the effects of radiation.

Here and now, as we offer our heartfelt consolation to the souls of those sacrificed to the atomic bomb, we pledge to join forces with people the world over seeking the abolition of the absolute evil, nuclear weapons, and the realization of lasting world peace.

August 6, 2014

MATSUI Kazumi
Mayor
The City of Hiroshima



首相挨拶全文

 広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。

 69年前の朝、一発の爆弾が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風に浚(さら)わせ、廃墟(はいきょ)と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。

 犠牲と言うべくして、あまりに夥(おびただ)しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃(たお)れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出(みいだ)さずにはいられません。

 人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には、確実に、「核兵器のない世界」を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。

 私は、昨年、国連総会の「核軍縮ハイレベル会合」において、「核兵器のない世界」に向けての決意を表明しました。我が国が提出した核軍縮決議は、初めて百を超える共同提案国を得て、圧倒的な賛成多数で採択されました。包括的核実験禁止条約の早期発効に向け、関係国の首脳に直接、条約の批准を働きかけるなど、現実的、実践的な核軍縮を進めています。

 本年4月には、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開催し、被爆地から我々の思いを力強く発信いたしました。来年は、被爆から七十年目という節目の年であり、5年に一度の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議が開催されます。「核兵器のない世界」を実現するための取組をさらに前へ進めてまいります。

 今なお被爆による苦痛に耐え、原爆症の認定を待つ方々がおられます。昨年末には、3年に及ぶ関係者の方々のご議論を踏まえ、認定基準の見直しを行いました。多くの方々に1日でも早く認定が下りるよう、今後とも誠心誠意努力してまいります。

 広島の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、倍旧の努力を傾けていくことをお誓いいたします。結びに、いま一度、犠牲になった方々の御冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶(あいさつ)といたします。




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こども代表と、国連からのメッセージ

平成26年度「平和への誓い」

わたしたちは、信じることができませんでした。
69年前の8月6日、この広島に原子爆弾が落とされ、多くの尊い命が奪われたことを。
5歳だった祖父は、「地獄のような光景が今も目に焼きついている。」と語ってくれました。

広島に育つわたしたちは、広島の被害、悲しみ、そして、強さを学びました。
爆風により、多くの建物がくずれました。
家や家族を失い、ふつうの生活がなくなりました。
その中で、
水道は1日も止まることなく、市内電車は、3日後には再び走りはじめました。
広島は人々の努力によって、町も心も復興したのです。

悲しみや苦しみの中で、生きることへの希望を見つけ、生き抜いた人々に感謝します。
当たり前であることが、平和なのだと気がつきました。

ある語り部の方は言いました。
「小さなことからはじめてほしい。」

わたしたちは、もう行動をはじめています。
友達を大切にし、優しく接しています。
家族や被爆体験者から被爆の事実と平和への思いを聞いています。
平和の思いを込めて、毎年千羽鶴を折り、慰霊碑に捧げています。
平和とは何か自分で考え、友達とも意見を交流しています。
平和について考えることで、仲間とつながりました。

わたしたちは、できることからはじめる勇気をもつことができました。

Welcome to Hiroshima.
みなさんをここ広島で待っています。
平和について、これからについて
共に語り合い、話し合いましょう。
たくさんの違う考えが平和への大きな力となることを信じて。


平成26年(2014年)8月6日
              こども代表  広島市立牛田小学校 6年 田村 怜子
                       広島市立尾長小学校 6年 牟田 悠一郎
 

Commitment to Peace

We were not able to believe it –
Sixty-nine years ago on August 6, an atomic bomb was dropped onto this Hiroshima, and many precious lives were lost.
Grandpa, who was five years old at the time of the bombing, spoke of that day: “The scenes, straight from hell, are still burned into my eyes.”

We who are growing up in Hiroshima learned about the damage, tragedy, and strength of Hiroshima.
Many buildings were destroyed by the blast. Having lost their homes and families, the survivors saw their everyday lives vanish.
Amongst this,
water service did not stop even for a day, and the streetcars began to run again after three days.
Through the efforts of the people, Hiroshima’s city and spirit were revived.

We are grateful for those who managed to find hope to live, and survived amidst the sadness and suffering. We realized that those things we take for granted are peace.

An A-bomb survivor once said: “Start from the small things.”

And we have already begun to act.
We value our friends and treat them kindly.
We listen to stories about the reality of the atomic bombing, and the longing for peace, from our families and the survivors.
With wishes for peace, every year we fold paper cranes, and dedicate them at the monuments.
We think for ourselves about what peace is, and exchange opinions with our friends.
By thinking about peace, we are able to connect with others.

We have gained the courage to start from what we can do.

Welcome to Hiroshima.
We are waiting for all of you here in this city.
Let’s all talk and share opinions about peace, about the future,
Believing that many different thoughts will become a powerful driving force for peace.

August 6, 2014

Children’s Representatives:
Reiko Tamura (6th grade, Hiroshima City Ushita Elementary School)
Yuichiro Muta (6th grade, Hiroshima City Onaga Elementary School)


アンゲラ・ケイン軍縮担当上級代表が代読

広島で開催される今年の平和記念式典に御参列の皆様にメッセージをお送りできることを、光栄に思います。

歴史学者によれば、今も私たちが記憶している残虐な原爆投下は、元々この式典会場からほど近い相生橋を投下目標としていました。それから数十年にわたり、広島市民と全世界の支持者の方々は、信頼、友好、理解という新たな形の多くの橋を築いてこられました。

この厳粛な式典は、悲惨な過去の記憶を、核兵器のない未来というビジョンに結びつけるものです。私は特に、被爆者の方々が、核廃絶が達成されるまで軍縮を推し進めるというコミットメントを進めていくことのできる新しい世代との絆を築いていらっしゃることに感謝しています。国連も同じ目標を積極的に追求しています。

広島から発信されている数多くの平和と希望のメッセージは、核兵器がもたらす悲惨な人道的帰結を世界に教示し、国際的な人道・人権法上、核兵器の使用は決して許されないということに焦点を当てた世界的なうねりを巻き起こしています。被爆者の方々は、こうした取り組みの「顔」となっています。被爆者の方々の証言に、私をはじめ、数限りない人々は胸を打たれました。

皮肉なことに、近代科学では、人類は、ひとたび使用されれば地球上のすべての生物を滅亡させることができる大量破壊兵器の保有と最新化を進める一方で、他の惑星の生物の存在を探索しています。私たちはこの欠陥に取り組み、核兵器の獲得競争を助長している軍国主義に立ち向かわなければなりません。

広島市民の皆様と国連との間には直接橋が架かっています。核軍縮は引き続き、国連の最重要目標のひとつになっているからです。加盟国と市民社会が協力し、核兵器のない世界というビジョンの実現に向けて歩を進めるうえで、国連は欠かせない存在です。

世界が被爆者の方々とともに、最後の核兵器が廃絶され、核兵器の時代と呼ばれる歴史上の悪夢に終止符が打たれる姿を目にできるよう、直ちに具体的な進展を求めるとともに、すべての人が希望、平和、繁栄という新時代の幕開けを迎えられるようにしていこうではありませんか。

* *** *



Delivered by Ms. Angela Kane, High Representative for Disarmament Affairs

I am honoured to send greetings to all participants in this year’s Peace Memorial Ceremony in Hiroshima.

The atrocious bombing we remember today had as its original target the Aioi Bridge not far from this ceremony, according to historians. In the years since, the citizens of Hiroshima and supporters around the world have created many new kinds of bridges ― of trust, friendship and understanding.

This solemn commemoration connects memories of a tragic past with the vision of a future free of nuclear weapons. I am especially grateful to the hibakusha for forging links with the new generations who can carry forward the commitment to pursue nuclear disarmament until it is finally achieved. The United Nations is actively pursuing this goal.

Hiroshima’s many messages of peace and hope have educated the world about the devastating humanitarian consequences of nuclear weapons, inspiring a global campaign focused on the unacceptability of using these arms under international humanitarian and human rights law. Thehibakusha have been the face of that effort. Their testimonies have deeply touched me and countless other people.

One of the great ironies of modern science is that humans are searching for life on other planets while retaining and modernizing weapons of mass destruction that, if used, can destroy all life on planet Earth. We must address this failing and counter the militarism that breeds the pursuit of such weaponry.

The people of Hiroshima have a direct bridge to the United Nations, where nuclear disarmament remains one of our most important goals. The United Nations is an indispensable arena where Member States and civil society can work together to advance our vision of a world free of nuclear weapons.

Let us press for immediate and concrete progress so that the hibakusha and the world can witness the final destruction of the last nuclear weapon as we end the historical nightmare known as the age of nuclear weapons– and welcome the dawning of a new era of hope, peace, and prosperity for all.

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平和記念式典:広島と長崎

69回めの夏
雨だった。
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毎年、いろいろあっても、平和のうちに、
黙祷が行われていることに、感謝。
これは、本当にすごいことだ。
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平和式典のありかたは、世界と日本の平和への想いを形にしていると思う。
ずっと見て来ると分かる。広島のスタンス、長崎のスタンス。
この変化。
特に、この何年かの動きは、劇的だったとも言える。
すばらしいことだと思うのに、あまり語られないのが残念だ。
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2010年、65回めの式典には、
国連のパン ギムン事務総長が出席、スピーチもした。それだけじゃなくヨーロッパの核保有国の代表他、74カ国。それから、当時駐日大使だったルース米国大使も出席したのだった。
当時は、彼らが何もコメントを残さないなど批判もされたが、それはそれ、少しずつで良い。
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去年、長崎はこの祈念式典で抗議をする。
日本はこの4月、
核兵器の非人道性を訴える共同声明に賛同しなかった。田上市長は平和宣言で「世界の期待を裏切った」「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢を示した」と指摘。政府に「被爆国としての原点に返ること」を求めた。(下にペースト)
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広島の平和式典ではこの問題はスルー。
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この二つの式典のスタンスの違いは興味深い。
広島は、戦後すぐから、爆撃した国を敵として恨むのではなく、
人類共通の戦争という概念を憎むというスタンスを貫いてきた。
確かに、狡さもあるのかもしれないが、それはそれで正しい。
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こういうのは、市長の差もあるだろうが、
長崎は、たとえば去年の抗議においても、がっつりぶつかっている。
これもこれで正しい。
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二つとも、目指す所は、人類の恒久の平和なのだから。
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さて、そして今年。
広島は、今問題になっている、集団的自衛権の問題にも触れなかった。
長崎は、触れる予定だと言う。
この二つの差、これも良い。
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2013年の記事
「核の非人道性」声明に賛同せず=日本、安保政策と一致しない
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時事通信 4月25日(木)1時5分配信
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 【ジュネーブ時事】日本政府は24日、スイスなど70カ国以上が支持した核兵器の非人道性を指摘した共同声明に賛同しないと表明した。「いかなる状況下でも核兵器が二度と使われないことは人類生存の利益」との表現が、日本の安保政策と現時点では一致しないと判断した。
 共同声明はスイスや南アフリカが主導。ジュネーブの国連欧州本部で開かれている核拡散防止条約(NPT)再検討会議第2準備委員会で提出された。
 声明は「核兵器の人道的影響は根本的かつ世界的な懸念として認識が高まっており、核廃絶と核不拡散を実現する上で中心となるべきだ」と明記。「核兵器が二度と使われないことを保証する唯一の手段は核兵器の全廃だ」とした。
 スイスは日本にも賛同を求め、両国は協議を重ねてきた。だが日本は米国による「核の傘」が事実上、北朝鮮などによる攻撃の抑止力となっている。このため、「いかなる状況下でも核兵器が二度と使われない」との表現について、「現実に核兵器が存在する中で(実態と)相いれない」(天野万利軍縮大使)として、賛同を見送った。」
 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130425-00000006-jij-int  

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http://www.asahi.com/hibakusha/shimen/2013natsu/2013natsu-43.html 
【2013年の夏】
被爆国の原点に返れ 「核非人道声明、政府は主導を」 長崎・原爆の日、平和宣言 (2013年8月9日 夕刊)
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 被爆68年となる長崎原爆の日の9日、長崎市で平和祈念式典が開かれた。原爆投下時刻の午前11時2分、参列者は目を閉じて犠牲者を悼んだ。田上富久市長は平和宣言で、政府が核兵器の非人道性を訴える共同声明に賛同しなかったことを「被爆国としての原点に反する」と強く批判。核廃絶にリーダーシップを発揮するよう求めた。

 政府は4月、スイス・ジュネーブでの核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える共同声明に賛同しなかった。田上市長は平和宣言で「世界の期待を裏切った」「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢を示した」と指摘。政府に「被爆国としての原点に返ること」を求めた。

 原発の技術を輸出するため、NPT未加盟のインドと原子力協定の交渉を再開したことも批判した。

 そのうえで、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」という憲法前文を引用。そこには国民の決意がこめられているとして、平和を求める原点を忘れないよう、戦争や被爆の体験を語り継ぐことの大切さを訴えた。

 反核運動を引っ張った長崎の被爆者、山口仙二さんが7月に亡くなったことを挙げ、減り続ける被爆者の平均年齢が78歳を超えたと指摘。「ノーモア・ヒバクシャ」という山口さんの演説を引き、若い世代に「被爆者の声に耳を傾けて」と呼びかけた。

 式典に出席した安倍晋三首相は「核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶、世界恒久平和の実現に力を惜しまぬことを誓う」とあいさつした。

 式典には約5800人が参列し、初参加のインドを含め、過去最多に並ぶ44カ国の代表が集まった。

 式典では、この1年間に死亡が確認された3404人の名簿が奉安され、長崎原爆による死者は計16万2083人になった。(斎藤靖史)

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69回目の夏、 この日のテレビ欄

69回目の夏、
この日のテレビ欄

69回目の夏、

この日のテレビ欄

この日、

人は何を見て過すのか。

テレビ欄はその一つの形かもしれない。

毎年、テレビ欄にどれ程の平和関連番組があるか、チェックしている。昔は平和関連番組があった。

どんどんどんどん減ってゆき、

今日は、ほとんど何も無い。

わずかにニュースの表題に現れるのみ。

テレビ番組は、瞬時に視聴率が表示される。まさに、人の興味を映し出すものだ。

今はもう、誰も興味を持つ者がいないということかもしれない。

70年目の来年に期待しつつ。

今年の夏を記録しておきたい。

TBS

ニュース23

綾瀬はるか生出演「戦争」を聞く(16)原爆が奪った生徒の命▽都議会が政務費公開…盆暮れ飲食との関係▽球児たちの夏が始まる 高校野球組合せ抽選会 今年はどんなドラマが

NHKニュース

18:10 首都圏ネットワーク 

▽原爆を忘れないために1行のコトバに託そう ▽甲子園!埼玉・神奈川 【キャスター】橋本奈穂子,寺澤敏行,【気象キャ...

21:00 ニュースウオッチ9 

▽“もう語れない…”高齢化する“語り部” 被爆体験どう受け継ぐ ▽東海道新幹線・23年ぶり速度アップに挑戦 【キャスター】大越健介,井上あさひほか

24:00 時論公論「被爆体験を“アオギリにたくして”」西川龍一解説委員

NHK 教育

23:00 100分de名著 アンネの日記 第1回「潜伏生活の始まり」 

ホロコーストの悲劇を象徴する一冊「ア...

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