サンデルサンデル

2012年2月14日 (火)

すずめ的社会科学 のつづき

すずめ的社会科学


最近、ちょい、気になってるキーワード。
ちょっと前の日記にも書いたけど、
社会科学


なぜ、気になってるかというと、ちょっと、モンクがあるからだ。

一つ前にも書いたように、
もしかして、デザインって、この「社会科学」をジで行ってるんじゃないかと思ってる。

だけど、デザイナという仕事をするようになってウン十年間、
デザイナには何ら、学問的な指針が示されたコトは無かった。
私たちは、
どんな自分とは合わないクライアントさんから仕事が来ても、受けるし、
がんばっちゃう。
すずめ的には、原発反対だけど、もし、ヒョンなことから、原発推進のポスターを作る仕事が来て、「もし」受けてしまったら、もちろん、他の仕事と同じくベストをつくす。
もちろん、受けないことも可能だけど、それも「どうかと思う。」たとえば、デザイナがみんなで、原発推進の仕事は受けないようにしよう!なんてのを決めて実行したら、原発推進の人たちは、ポスターを作れない。それって、どうなのか。。。
それって、プロフェッショナリズム的に「どうかと思う。」

で、
この「どうかと思う。」
ってのは、結局はデザイナの職分では言い切れないのだ。
社会として。。ってのはともかく、概念論として考えるとどうなのか。
それを、学際的に研究したヒトって、いるのか。。。いないんじゃないかな。
だって、現場のデザイナには届かないもん。
でも、デザイナたちは、渇望してるよ。
だって、私たちは、毎日、ワカランチンのクライアントさんにトンデモな事を言われて、「そんなの間違ってるっ!」って言い返せない。言い返す根拠の(平たく言えば、方便に使えるようなもっともらしいステイタス)のある言葉を持っていないから。

そういうジレンマから、ずっとすずめ的には、視覚の客観化をやってきたんだけど。。。
たとえば、「だって、見えなきゃダメでしょ。こんなに見えなくなるんですよ。」
みたいなコトが言えれば、ワカランチンさんたちも
「そっか、デザインが見えないってダメじゃん」って思ってくれるかも。。。っと。

だけど、敵もサルもの。。。「見えないからって、どーなの」「ウチはそんなの関係無い」「分かり易すぎて誤解される」っと、のたまう。。。ってのはともかく、
要するに、こういう具体的例示だけじゃ無理。あ、もちろん、それが重要なのは変わらないけど、それにプラスして、もっと、概念的な訴求っていうか、なぜ、客観化が必要なのか。。。理念。そっちも無いと。


そんなの何で分かって無いのか。
デザインは、日々、社会を動かしてる。政治家のじーさんが、会議でナントカつぶやいて書類に判を押して。。なんてのと同じ位、ってかおそらくはそれ以上に、社会を動かす力がある。
それなのに、
デザインを学問で研究してるヒトって、いない。
知覚心理学みたく、ドンピシャじゃん、っていう所にもいなかったし、
人間工学みたいな所にも、それほどいない。(こっちはプロダクト系の人はいるけど)

何で、社会科学の学者さんたち、デザインをテーマにして来なかったのか。
なぜ、デザインを学んだ者でそれをやったヒトが誰もいないのか。


すずめ的偏見だけど、
ここで言うデザイナっていうのは、一般大学を出て、ヒョンな事からデザイナになったようなのをイメージしてない。ちゃんと、鉛筆をカッターで削って、お絵描きが好きで、石膏デッサンがウン十倍かの倍率のビダイの試験に通る程の腕を持ってて、企業かどっかで実践を経験してて。。。ってのを意味する。もちろん、芸術学とか教育の美術ってのは、全く別モノ。

そういうヒストリーの上に、デザインをきちんと体系的にまとめた人って、無いって思う。
っていうのが、すずめの学者さんたちへのモンクでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月23日 (水)

サンデルのつづき

前に書いたマイケル サンデルのハーバード白熱教室。
お正月、ずっと通しでやってた。

やっぱり、まだ、人気は衰えないんだろう。

ちょっと前、彼の方法を真似た授業を Y市立大でやった番組をちらりと見た。
チラリと。。。というのは、見るに耐えなかったから。
途中からちょっとだけ見て、飽きた。


学生たちに、
自分たちで選ばせたテーマで研究させ、
それを発表させ、
討論しようというもの。

教室の後ろには大人たちが立ち、討論に参加してる。


「環境を大切に」
「例えば、制服をペットボトルで作るなどという方法もあります。」

みたいな。。。

そのまんま、小学生だ。

環境を守るような産業を育てるべき。。。。みたいな。
そんなの、誰でも、小学校低学年でも知ってるハナシだ。
オトナが考えるべきは、それが現実的に、どうしてきちんと回っていかないか。
そこから少しでも良くする道を見つけるべきって言うことじゃないのか。

制服をペットボトルで作る際に、どれだけの環境負荷があるのか、
その負荷を計算したら、本当にそれは正しいのか、
他の方法を考えるべきではないか。。。
その他の方法はうまくいくのか。。。?
そういう議論、すべきじゃないの?
環境を守ろうなんて、いろんな方面からいろんな人たちがイロイロやってて、その成果が現在の日本。
その成果がどれだけあったか(実は、成果的には日本は世界に冠たるエコ産業立国でもある)、どの部分にまだ努力の余地があるか。。。っということのはずでしょ。

なのに。。。
「ペットボトルの制服」に、
誰も反論しない。
まさに小学生の総合学習の発表会並み。


で、思った。

この子たち、
どういう専攻か知らないけど、
考えてみると、上のような反論はある意味で、理系の範疇なのかもしれない。
そこには限界があるかもしれない。


そこから、
ハーバードでの議論を思い出してみる。
議論のレベルの差は歴然だけど、
それは、本当に、学生個人の知的レベルの差なんだろうか?
もしかすると、
ハーバードの子たちにも、こういう方式でやらせてしまえば、
同じようなマヌケさを持ってしまうんじゃないだろうか。
なぜなら、大統領選のディベートでも同じようなマヌケさがあるのだから。

環境問題に対する政治的、科学的なバックボーンをすべての学生が持つべき。。。とは思わない。というか、そういうのがあるかどうかは、本来問題じゃない。彼らの専攻とは関係無いんだし。


ハーバードのクラスと
Y市立大のクラスの差。

これは、
導く教授の差に他ならないんじゃないだろうか。
サンデルは、バックボーン的な知識の差が出るようなものは回避させる。
唯一、哲学の授業であるから、ジョンロック、ロールズなど、哲学系の理解をベースにしているだけだ。
他は、全く問わない。だからこそ、国籍を問わず老若ニャンニャン、あらゆる知的レベルの人たちに楽しめるのだ。
具体的な例として用いるのは、
かなり普遍化させたステレオタイプのみ。

イチローの年収
100年前の船の事故の裁判
親切過ぎる車の修理工。。。


そして、
学生たちの誰もが、
マイケル サンデルの個人的な哲学者としての方向性が、
コミュニタリズムにあり、それはリバタリアニズム VS 社会という軸の上に乗ったものであり、
その軸のベクトルをはずさない「マナー」を持っている。
だから、どのディベートも、サンデル自身の誘導もあるが、
同じ方向に帰結していく。
誰も、例えば芸術論とか言い出したりしない。
もし、そういうのを誰かが出してきたら、きっとそれさえ、「社会との関わり」っぽくまとめられて行くんだろう。
ディベート的能力のトレーニングっていうのは別。
だって、実際、彼らはその議論のゴールがどこか知っていて、(しかも結果的には結論/勝敗を言い切らないのがサンデル先生ってのも知ってて)
反論してる。反論者も、最後は切られると知ってるから、節度を守って(イコール八百長的に)突っ込んでる。
ホントに討論して勝ち負けを決しようと思ったら、大統領候補者対決みたく、機関銃の打ち合いみたいになっちゃうんだろう。


これって、
考えてみると,
たとえば、算数の鶴亀算とかを学生たちに理解させるための、「仕掛け」と同じだったのかもしれない。
ただ、その仕掛けの大きさが壮大だったけで。


ってコトは、
きっと多くのセンセイたちが思ってると思うけど、
同じような哲学や政治学みたいなテーマでやる必要は無い。
全く別のでも良いかも。
例えば、絵とかでも?

あ、そういえば、
学生時代の講評会(作品を提出した後の講評はいつも公開で行われ、ホントはそれが一番勉強になると誰もが知ってる)
ってそういう形に近かったかも。
ただ。。。センセイに突っ込まれて、延々と口先で弁明する度胸があるヤツはいないだけで。
そうそう、
サンデルの次は、ビダイの講評会ってのを公開したらおもしろいかも?

----

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1568869778&owner_id=12848274

すずめ、サンデル先生が東大でやった講義に参加しちゃいました。
そのレポートを上の日記から何日か書いてました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

公共哲学の夜

2010年09月25日14:22
今、じゃっく先生のつぶやきで知っちゃったんだけど、

この間、すずめが行ったサンデル教授@東大
明日の夜、やるんだって。


http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2010-09-26&ch=31&eid=16497


うふっ。


ってのはともかく。。。
今日の日記


民主主義って/ 熟議の民主主義


この間、ヒョンな感じに公共哲学なるモノの会に行っちゃった。

実はすずめは、多少、お察しされてるかもだけど。。。
学生時代は、すんごい、ブンガク少女だった。小学校に入学したそ
の日から、とにかく、一日中、本ばっかし読んでた。
よく、学年に1人とか、図書館の貸し出し数が突出してるヤツがい
たと思うけど、
そうそう、それ。
とにかく、高校までの12年間、本ばっかしの人生だったので、こ
のままじゃ字しか読めないオトナになってしまうと思って、美大に
行ったのだった。


っていうカコがあるので。。。
哲学って、興味が無いワケじゃないけど、でも、俗物的単細胞の脳
に成り果ててしまった今日この頃。。。
逆に、単細胞で考えると新鮮で、面白いんじゃないかと、
参加してみた。


っていうのが前置き。

で、何かイロイロ考えさせられた。
以下、すずめ的妄想風考察。


民主主義って何だろう?
すずめたちは小学校の頃から、多数決で学級委員を決めて、飲み会
の行き先も多数決で決めちゃったりする。
なぜなら、それが公平だから。
公平?
本当に、公平なんだろうか?
そして、そこから導きだされる解答は、真実の一つだったりするん
だろうか?

「ナチス、ヒットラーも民主主義によって選ばれたんですよね。」
っと、公共哲学会を主催されてる哲学者Y氏はおっしゃった。

すずめの頭には、「色付きの悪夢」(NHKの番組 昔の白黒
フィルムをいろんな資料をもとに画像処理して『色付き』にする試
み)で見た、ナチスの赤い旗が広がった。
あの赤、何て魅力的だったろう。ワインカラーでもなく、少し、黄
色っぽい、でも、鮮やかに深い。
正直、カッコ良過ぎ。
あんな色と、ハーケンクロイツ、見せられちゃったら、すずめなん
か、イチコロだ。ヒットラーに熱狂しちゃいそう。ホント、あの時
代に生まれなくて良かった。

そういう仕掛けのもとに、民主主義を取られたら。。。
その結果がもたらすものには、真実があるんだろうか?

そういえば、コイズミ内閣の頃もそうだった。
なぜか、高支持率が延々と続いた。

コレが飲み会の行き先

ワインバーか、イタメシか、居酒屋か。。。
その差だったら、多数決も良い。もし、お腹がすいてる人が少なく
てワインバーになっても、それはそれ。
大勢がイタメシにつき合うのは理不尽だし。かと言って、「みんな
で話がしたい」っていうのが、第一の目的なんだから、バラになっ
てっていう選択肢は無い。
お開きになった時、
「おほほ、おしゃれ~な私たちに、ぴったりの雰囲気ザマしたわねぇ。」
っと、微笑んでる酔っぱらいが多い方が良い。


っていうような、コトを日々、学習しちゃってるから、コイズミの
支持率っていうのが、すばらしいコトに見えちゃったりしてた。で
も、その実、ひねくれモノのすずめの頭には、90%を越えるのっ
て、どーよ。っと、ナチの姿が頭をよぎらなかったワケではない。
だけど、そうは思っても、世の中の9割が信じてると、長いモノに
は巻かれてしまう。


って、長くなったんで、また明日。

さて、多数決のハナシのつづき。
コイズミ支持率は一時、100%に迫る90%台。それを長く維持
してた。


この9割ってすごい。
ハナシは反れるけど、
75%だっけ?忘れたけど、一定以上のシェアを取った商品は、
絶対に覆せないという「神話」があった。
この例えで引用されるのが、キリンラガー。
ご存知の通り、ドライ戦争が始まるまで、神話はずっとリアルだった。

マーケティングの基本も、結果論的な多数決だ。
100万個売れるものは、開発コストなんか、ビビたるものだ。
だけど、1000個しか売れないものには、開発コストどころか、
パッケージの版代金なんかでも、出費は大きい。同じものでも、一
個あたりの定価を高く設定しなければならないから、その付加価値
を理解してもらえる人じゃないと、買ってもらえない。売れない、
だから作らない。

でも、考えてみると。。。
それって、独裁者と、どう違う?

売れるか売れないかの結果。
独裁者が勝手に決めた結果。

下っ端の個人にとって、
成るようにしかならない結果ってコトでは同じなんじゃないかなあ。

そんな
疑問を感じる、感じないに関わらず、私たちは、そういうオキテの
中に生きてる。

ヒットラーがそうであったように、
民主主義とは、独裁者をも肯定してしまう方法論なんだろう。
困ったコトに、それなのに、私たちは、民主主義イコール公平と信
じてしまっている。
単細胞すずめは、カッコ良ければ、ナチの赤い旗に向かって突進し
ちゃうかも。

じゃあ。
どうしたら良い?

中学生辺りに聞いても、こう、応えるだろう。
「少数意見も尊重すべき」

なーるほど。
やっぱりマーケティングのハナシでこういうのを聞いたことがある。
たとえば、化粧品のパッケージ(クリーム)のデザインモニター。
1 白いデザイン
2 ピンク
3 薄黄色
4 黒
調査結果では、もちろ、白がダントツ。
でも、黒も14%あった。
多数決的には、白だけど、この結果から黒を選択して、成功した。

全員が選ぶ無難なモノって、魅力を感じないこともある。少なくと
も、市場で競合に勝つためには、何か、アピールが別に必要にな
る。そのアピールがボトルカラーでできれば、これほど安上がりな
戦略は無い。だけど、黒い瓶のクリームなんて、肌も黒くなっちゃ
いそう。。。?
黒という(その当時は)大冒険の色でも、14%あったというの
は、この色が受け入れられる素地はあるのだという事を示している
という判断なのかもしれない。

マーケティングの場合、売れる事、イコール 真実であり、善だ。
そこにきれいごと、言うつもりはない。
だって、売れ残ったら、捨てるしか無い。お店も、会社も倒産しちゃう。

だから、この結果、
14%を選ぶっていうものは、正しいんだろう。
まさに、これって「少数意見を尊重」した成功例?


でも、そうだろうか?
14%じゃなく、10%だったら?
もしくは、いつも50%を廃して14%を選んで正解なんだろうか?
実は。。。
殆どの現場では、1位が50%で2位が14%だったら、一位
を廃して、2位を選ぶ事なんてできない。
多くは、非常にキャラが立った?ような天才肌のベテランマーケッ
ターがいて、彼の「独断」で、決定されるのだ。
彼は天才なので、外すコトもあれば、当たるコトもある。
黒いクリームの箱は冒険であり、どっちにしろ、当たるも八卦当た
らぬも八卦。当たらなかった時は、大外れ。
その点、無難なデザイン(白)であれば、大当たりはしないかもし
れないけど、大外れも無い。

さ~って、そんなコト、誰もが承知の上、どういう結論を出すか。

多数決の少数意見。
たくさんある個別の少数意見のうち、どれを採用するか。
それもまた、多数決で決めるんだろうか。

それって、じゃんけんより、正しいんだろうか。


-----


もひとつ、すずめの妄想的例

昨今のユニバーサルデザイン。
点字ブロックって、高齢者には突っかかりやすい。

視覚障害への補助をちょっと見えないヒトもカバーするのか、
全盲でしかダメなのか。。。
車椅子の方が聴覚障害よりオトクにするか。。。。

障害って、ヒトの数ほど多種多様。だから、どんな形のものでも、法律でも、
あっちを立てればこっちが立たず。。っていうようなのはすっごく多い。
っていうか、みんなにハッピーなんて、アリエナイ。

そんな中、
「少数意見」って「誰の?」
ってのが、一番の問題になる。
結果的に、ニッポンは障害者運動としては、車椅子のヒトたちがずっと頑張ってきたので、
彼らの声が一番大きく聞こえる。(ってのはすずめの誤解です。ごめんなさい)その次は、ロービジョンでなくて、全盲。(ってのもすずめの誤解です。ごめんなさい。っと最初から謝っちゃうけど)
で、ナンタラ病とか、よく分からない複雑なモノは、仲間も少ないから、行政への声も届かない。
多数決の場では、この声の大きさで「少数意見」の中が更に分かれてるコトになる。

そんなのアタリキシャリキな中、どれを選ぶか。
結局は、マスコミ受けの良いモノになる。


「少数意見を尊重」イコール、多数決なんていうのは、単なる手続きにすぎず、最初っから結論は決まってるってコトじゃないだろうか?天才の独断によって。
それって、要するに、独裁と似てる。
そして、それって、場合によっては、更に不公平に感じちゃうってコトないだろうか?

っていうすずめ的多数決の限界。


また、長くなったので、続きは明日。

じゃあ、
どうすりゃ、良いんだろう。

多数決に問題があることなんて、本当は幼稚園児でも知ってる。
だけど、ニホンのエライヒトも、アメリカの大統領も、それで決められてる。
なぜかというと、
多数決は別に良いアイデアが無いっていう事に尽きるんだろう。


そこで、
熟議の民主主義ってのがあるんだそうだ。
このコトバ、初めて聞いたんで、
最初は熟慮の民主主義かと思ったんだけど、ぐぐると、
熟議の民主主義って言葉が出てきたんで、こっちだろうな。


たとえば、ココに書いてある。

http://www.csdemocracy.com/ronkou/tamura091110.html
ここで注目されるのが、熟議民主主義である。「熟議」とは、「熟慮し議論する」ということだ。自分の意見をできるだけ明確に述べるとともに、他者の異なる意見にも真摯に耳を傾け、納得したり自分の誤りに気づいたら、自分の意見を修正する。それは、「ごり押し」や「固執」や「論破」ではない。熟議民主主義は、集計民主主義の問題点を乗り越える可能性を秘めている。投票サイクルの状態は、それぞれの見解を修正し合うことでしか解決しない。現代社会には、唯一の「正解」を見出しにくい社会問題が多数存在しているとなれば、なおさらである。政治が素朴な「世論」に左右されたり、「利益誘導」の場にならないためには、何が妥当なのか、何がなされるべきなのかについて、世論そのものの質を高め、「よく練られた世論」によって政治家をコントロールすることが必要である。
うーん。

理屈としては分かるかもだけど。


何か、すっごく恣意的な気がする。
多数決って、分かりやすい。みんなで投票して、数の多いのに決めれば良い。
だけど、コレって、平たく言って、どうすれば良い?
決を取る前に、みんなでトコトン議論せよってコト?
トコトンってどのレベル?
1時間?10日?
パワポとか、資料とか使う?
会議室で?居酒屋で?

メンバーの中に口がよく回るセンセイとかいる?
スレスレで見えそうなミニスカートの美女とかいる?

国立行政法人仕分け会議

1参加者 町のおじさん プラス 美女 @居酒屋
2参加者 町のおじさん プラス 東大教授 @会議室

同じ時間熟議しても、結果は全然、違いそう。。。
でも、それがどういう結果になるか、ウスウス分かるんで、最初っから、助っ人を美女にするか、センセイにするか、ちょい、手心を加えれば、結果は自由自在。


ところで、この日、イロイロ政治系のヒトたちも来てた。
で、すずめのした素朴な質問。

「政治家さんっていろいろいると思うんですけど、その中で誰が良いかって、分かんないんです。政治家としての能力っていうか、スキルとか、偏差値にできないんですか?たとえば、柔道家のヒトとか。。偏差値どれくらいなのかとか。。」

そうそう!、って意外に立派な哲学系のヒトたちにもウケタ気がするんだけど。
(っていうお調子モノのすずめ)
どう考えても、スキルの無い、基礎知識の無い人には、政治は難しそう。
騙すのは簡単そうで、騙そうと思ったら、素人ばかり入れれば良い。そうすれば、エライ政治家さんの言うなりの手駒だよね。
ってまあ、言うまでも無いことなんだけどさ。

でも、何で、政治にプロフェッショナリズムって問われないんだろう。
政治家としてのスキルが高けりゃ、少々フリンしてたって、オッケーだけどね。
ニホンはそれを問わないから、政策作成能力や政治的手腕じゃなく、全然関係無いコトで引きずり降ろされるんじゃない?

ってのは、ともかく。
元の、熟議の民主主義に話しを戻すと。。。

あ、その前に、
すずめのデザイナ的経験。


よく、いろんな場で、酷いデザインを見ることがある。
何で??っていうの、よくあるよね。
そういうのを見るたび、すずめは想像する。
ああ、みんなで寄ってたかって、こんなにしちゃったのね。。。


デザインって、デザイナが提案したそのままで通る時ばかりじゃない。
アレはダメ、コレ入れて。。。といろんな条件があったりする。
それだけなら良い。
「みんなで考えましょう」
みたいに素人さんが寄ってたかって来ちゃうコトもある。
「一緒に勉強していきましょう」
トカナントカ。
あのさあ。あたし、この道、ウン十年なの。何で今更、素人さんとオベンキョしなきゃいけないのよっ。
だけど。。。それが多勢に無勢で言えなかったりする。

(この部分には、すずめは怨念の思い出がいっぱいある)

そうすると。。。結果は最悪。
すずめはいろんな印刷やら複雑なテクニックを駆使して選らんだ黒を、
あのヒトは青が良いと言い、このヒトは赤が良いと言う。
そういう人たちに「なぜ黒」なのかというのを、統計やいろんな資料を集めれば説明できるかもだけど、そんな事するためには、デザイン作業の何十倍もの時間がかかる。。。なので、しょーがないから、青と赤の縞にする。
「あらあ、その方が全然、良いわ!」
っと一人が言うと、みんながそうだそうだ。。。ってなっていく。
そういうヒトにセンスがあるかどうか。。薄々服装でも分かるんだけど、それは言えない。
で、多数決。
デザインっていろんな理屈の上で作り上げてるものなんだけど、
いろんなヒトが、理屈を知らないで、勝手なことを言えば言うほど、ひどくなる。でも、その勝手なことを言った人には、何の責任も無く、酷いものに上がった場合はデザイナの責任なのだ。

デザインに対する「熟議」が3分なら良い。
30分もあったりしたら、エライコトになる。
熟議なんて、やればやるほど、ひどくなる。

「それはうまく、コントロールしていくということによって・・」
とかって、言われても、
それって、詭弁だとしか思えない。

ここにある大きな問題はプロフェッショナルと、素人とのスキルの差だ。
デザインなどという、形のあるもの、前例のあるものへの答えは、
プロフェッショナルは、もともと知っている。
結果として、「熟議」の成功とは、このプロのスキルをいかに損なわないで、最初に提示したデザインの通りにできるかという事でしかない。
そもそも、素人さんのアドバイスなど、プロには、何の役にも立たない。(きっぱり!)

それなのに。。。
最悪な事に、
熟議を重ねた上に、多数決があると。。。
結果的には、10人の素人の意見が一人のプロの意見に勝ってしまうという事になるのだ。
熟議でめちゃくちゃにして、みんなで多数決。
多数決までやられちゃった日にゃ、もう、デザイナには抵抗するすべは無い。
技術やテクニックは無視で、素人シゴトでやりたいなら、最初っからプロ抜きにすりゃ良いのに。
だけど、その素人10人の感性は、必ずしも何百万人もの消費者を代表してない。狭い密室で、「熟議」して作り上げた独特な空気の中だけでしか通用しないものだったりする。
市中で時々見る、ゴチャゴチャにいろんなモノが盛り込まれた稚拙なデザイン。きっと、そんな理由あるんだろーなっと、いつも頭をよぎる。

熟議
プラス
多数決。

まさに最悪のルール。

デザインっていうのは、技術の上にあるもの。だから。特殊なのかもしれない。

じゃあ、政治はどうだろう?
もちろん、スキルとか統計手法とか、論理性ってあるよね。
(逆にそれ以外、思いつかない)
だとすると。。。。デザインにおける熟議の多数決と同じなんじゃないだろうか?


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 4日 (火)

サンデル先生の魅力

前に書いたマイケル サンデルのハーバード白熱教室。
お正月、ずっと通しでやってた。

やっぱり、まだ、人気は衰えないんだろう。

ちょっと前、彼の方法を真似た授業を Y市立大でやった番組をちらりと見た。
チラリと。。。というのは、見るに耐えなかったから。
途中からちょっとだけ見て、飽きた。


学生たちに、
自分たちで選ばせたテーマで研究させ、
それを発表させ、
討論しようというもの。

教室の後ろには大人たちが立ち、討論に参加してる。


「環境を大切に」
「例えば、制服をペットボトルで作るなどという方法もあります。」

みたいな。。。

そのまんま、小学生だ。

環境を守るような産業を育てるべき。。。。みたいな。
そんなの、誰でも、小学校低学年でも知ってるハナシだ。
オトナが考えるべきは、それが現実的に、どうしてきちんと回っていかないか。
そこから少しでも良くする道を見つけるべきって言うことじゃないのか。

制服をペットボトルで作る際に、どれだけの環境負荷があるのか、
その負荷を計算したら、本当にそれは正しいのか、
他の方法を考えるべきではないか。。。
その他の方法はうまくいくのか。。。?
そういう議論、すべきじゃないの?
環境を守ろうなんて、いろんな方面からいろんな人たちがイロイロやってて、その成果が現在の日本。
その成果がどれだけあったか(実は、成果的には日本は世界に冠たるエコ産業立国でもある)、どの部分にまだ努力の余地があるか。。。っということのはずでしょ。

なのに。。。
「ペットボトルの制服」に、
誰も反論しない。
まさに小学生の総合学習の発表会並み。


で、思った。

この子たち、
どういう専攻か知らないけど、
考えてみると、上のような反論はある意味で、理系の範疇なのかもしれない。
そこには限界があるかもしれない。


そこから、
ハーバードでの議論を思い出してみる。
議論のレベルの差は歴然だけど、
それは、本当に、学生個人の知的レベルの差なんだろうか?
もしかすると、
ハーバードの子たちにも、こういう方式でやらせてしまえば、
同じようなマヌケさを持ってしまうんじゃないだろうか。
なぜなら、大統領選のディベートでも同じようなマヌケさがあるのだから。

環境問題に対する政治的、科学的なバックボーンをすべての学生が持つべき。。。とは思わない。というか、そういうのがあるかどうかは、本来問題じゃない。彼らの専攻とは関係無いんだし。


ハーバードのクラスと
Y市立大のクラスの差。

これは、
導く教授の差に他ならないんじゃないだろうか。
サンデルは、バックボーン的な知識の差が出るようなものは回避させる。
唯一、哲学の授業であるから、ジョンロック、ロールズなど、哲学系の理解をベースにしているだけだ。
他は、全く問わない。だからこそ、国籍を問わず老若ニャンニャン、あらゆる知的レベルの人たちに楽しめるのだ。
具体的な例として用いるのは、
かなり普遍化させたのみ。

イチローの年収
100年前の船の事故の裁判
親切過ぎる車の修理工。。。


そして、
学生たちの誰もが、
マイケル サンデルの個人的な哲学者としての方向性が、
コミュニタリズムにあり、それはリバタリアニズム VS 社会という軸の上に乗ったものであり、
その軸のベクトルをはずさない「マナー」を持っている。
だから、どのディベートも、サンデル自身の誘導もあるが、
同じ方向に帰結していく。
誰も、例えば芸術論とか言い出したりしない。
もし、そういうのを誰かが出してきたら、きっとそれさえ、「社会との関わり」っぽくまとめられて行くんだろう。
ディベート的能力のトレーニングっていうのは別。
だって、実際、彼らはその議論のゴールがどこか知っていて、(しかも結果的には結論/勝敗を言い切らないのがサンデル先生ってのも知ってて)
反論してる。反論者も、最後は切られると知ってるから、節度を守って(イコール八百長的に)突っ込んでる。
ホントに討論して勝ち負けを決しようと思ったら、大統領候補者対決みたく、機関銃の打ち合いみたいになっちゃうんだろう。


これって、
考えてみると,
たとえば、算数の鶴亀算とかを学生たちに理解させるための、「仕掛け」と同じだったのかもしれない。
ただ、その仕掛けの大きさが壮大だったけで。


ってコトは、
きっと多くのセンセイたちが思ってると思うけど、
同じような哲学や政治学みたいなテーマでやる必要は無い。
全く別のでも良いかも。
例えば、絵とかでも?

あ、そういえば、
学生時代の講評会(作品を提出した後の講評はいつも公開で行われ、ホントはそれが一番勉強になると誰もが知ってる)
ってそういう形に近かったかも。
ただ。。。センセイに突っ込まれて、延々と口先で弁明する度胸があるヤツはいないだけで。
そうそう、
サンデルの次は、ビダイの講評会ってのを公開したらおもしろいかも?

----

http://suzume6.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-4071.html


すずめ、サンデル先生が東大でやった講義に参加しちゃいました。
そのレポートを上の日記から何日か書いてました。
(カテゴリー サンデルサンデルにもいくつか書いてあります)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月25日 (土)

すずめ的公共哲学風妄想

民主主義って/ 熟議の民主主義


この間、ヒョンな感じに公共哲学なるモノの会に行っちゃった。

実はすずめは、多少、お察しされてるかもだけど。。。
学生時代は、すんごい、ブンガク少女だった。小学校に入学したその日から、とにかく、一日中、本ばっかし読んでた。よく、学年に1人とか、図書館の貸し出し数が突出してるヤツがいたと思うけど、
そうそう、それ。とにかく、高校までの12年間、本ばっかしの人生だったので、このままじゃ字しか読めないオトナになってしまうと思って、美大に行ったのだった。


っていうカコがあるので。。。
哲学って、興味が無いワケじゃないけど、でも、俗物的単細胞の脳に成り果ててしまった今日この頃。。。
逆に、単細胞で考えると新鮮で、面白いんじゃないかと参加してみた。


っていうのが前置き。

で、何かイロイロ考えさせられた。
以下、すずめ的妄想風考察。


民主主義って何だろう?
すずめたちは小学校の頃から、多数決で学級委員を決めて、飲み会の行き先も多数決で決めちゃったりする。
なぜなら、それが公平だから。
公平?
本当に、公平なんだろうか?
そして、そこから導きだされる解答は、真実の一つだったりするんだろうか?

「ナチス、ヒットラーも民主主義によって選ばれたんですよね。」
っと、公共哲学会を主催されてる哲学者Y氏はおっしゃった。

すずめの頭には、「色付きの悪夢」(NHKの番組 昔の白黒フィルムをいろんな資料をもとに画像処理して『色付き』にする試み)で見た、ナチスの赤い旗が広がった。
あの赤、何て魅力的だったろう。ワインカラーでもなく、少し、黄色っぽい、でも、鮮やかに深い。
正直、カッコ良過ぎ。
あんな色と、ハーケンクロイツ、見せられちゃったら、すずめなんか、イチコロだ。ヒットラーに熱狂しちゃいそう。ホント、あの時代に生まれなくて良かった。

そういう仕掛けのもとに、民主主義を取られたら。。。
その結果がもたらすものには、真実があるんだろうか?

そういえば、コイズミ内閣の頃もそうだった。
なぜか、高支持率が延々と続いた。

コレが飲み会の行き先

ワインバーか、イタメシか、居酒屋か。。。
その差だったら、多数決も良い。もし、お腹がすいてる人が少なくてワインバーになっても、それはそれ。大勢がイタメシにつき合うのは理不尽だし。かと言って、「みんなで話がしたい」っていうのが、第一の目的なんだから、バラになってっていう選択肢は無い。
お開きになった時、
「おほほ、おしゃれ〜な私たちに、ぴったりの雰囲気ザマしたわねぇ。」
っと、微笑んでる酔っぱらいが多い方が良い。


っていうような、コトを日々、学習しちゃってるから、コイズミの支持率っていうのが、すばらしいコトに見えちゃったりしてた。でも、その実、ひねくれモノのすずめの頭には、90%を越えるのって、どーよ。っと、ナチの姿が頭をよぎらなかったワケではない。だけど、そうは思っても、世の中の9割が信じてると、長いモノには巻かれてしまう。


って、長くなったんで、また明日。


-----


昨日は、多数決のハナシ。
コイズミ支持率は一時、100%に迫る90%台。それを長く維持してた。


この9割ってすごい。
ハナシは反れるけど、
75%だっけ?忘れたけど、一定以上のシェアを取った商品は、
絶対に覆せないという「神話」があった。
この例えで引用されるのが、キリンラガー。
ご存知の通り、ドライ戦争が始まるまで、神話はずっとリアルだった。

マーケティングの基本も、結果論的な多数決だ。
100万個売れるものは、開発コストなんか、ビビたるものだ。
だけど、1000個しか売れないものには、開発コストどころか、
パッケージの版代金なんかでも、出費は大きい。同じものでも、一個あたりの定価を高く設定しなければならないから、その付加価値を理解してもらえる人じゃないと、買ってもらえない。売れない、
だから作らない。

でも、考えてみると。。。
それって、独裁者と、どう違う?

売れるか売れないかの結果。
独裁者が勝手に決めた結果。

下っ端の個人にとって、
成るようにしかならない結果ってコトでは同じなんじゃないかなあ。

そんな
疑問を感じる、感じないに関わらず、私たちは、そういうオキテの中に生きてる。

ヒットラーがそうであったように、
民主主義とは、独裁者をも肯定してしまう方法論なんだろう。
困ったコトに、それなのに、私たちは、民主主義イコール公平と信じてしまっている。
単細胞すずめは、カッコ良ければ、ナチの赤い旗に向かって突進しちゃうかも。

じゃあ。
どうしたら良い?

中学生辺りに聞いても、こう、応えるだろう。
「少数意見も尊重すべき」

なーるほど。
やっぱりマーケティングのハナシでこういうのを聞いたことがある。
たとえば、化粧品のパッケージ(クリーム)のデザインモニター。
1 白いデザイン
2 ピンク
3 薄黄色
4 黒
調査結果では、もちろ、白がダントツ。
でも、黒も14%あった。
多数決的には、白だけど、この結果から黒を選択して、成功した。

全員が選ぶ無難なモノって、魅力を感じないこともある。少なくとも、市場で競合に勝つためには、何か、アピールが別に必要になる。そのアピールがボトルカラーでできれば、これほど安上がりな
戦略は無い。だけど、黒い瓶のクリームなんて、肌も黒くなっちゃいそう。。。?
黒という(その当時は)大冒険の色でも、14%あったというのは、この色が受け入れられる素地はあるのだという事を示しているという判断なのかもしれない。

マーケティングの場合、売れる事、イコール 真実であり、善だ。
そこにきれいごと、言うつもりはない。
だって、売れ残ったら、捨てるしか無い。お店も、会社も倒産しちゃう。

だから、この結果、
14%を選ぶっていうものは、正しいんだろう。
まさに、これって「少数意見を尊重」した成功例?


でも、そうだろうか?
14%じゃなく、10%だったら?
もしくは、いつも50%を廃して14%を選んで正解なんだろうか?
実は。。。
殆どの現場では、1位が50%で2位が14%だったら、一位を廃して、2位を選ぶ事なんてできない。
多くは、非常にキャラが立った?ような天才肌のベテランマーケッターがいて、彼の「独断」で、決定されるのだ。
彼は天才なので、外すコトもあれば、当たるコトもある。
黒いクリームの箱は冒険であり、どっちにしろ、当たるも八卦当たらぬも八卦。当たらなかった時は、大外れ。
その点、無難なデザイン(白)であれば、大当たりはしないかもしれないけど、大外れも無い。

さ〜って、そんなコト、誰もが承知の上、どういう結論を出すか。

多数決の少数意見。
たくさんある個別の少数意見のうち、どれを採用するか。
それもまた、多数決で決めるんだろうか。

それって、じゃんけんより、正しいんだろうか。


------

もひとつ、すずめの妄想的例

昨今のユニバーサルデザイン。
点字ブロックって、高齢者には突っかかりやすい。

視覚障害への補助をちょっと見えないヒトもカバーするのか、
全盲でしかダメなのか。。。
車椅子の方が聴覚障害よりオトクにするか。。。。

障害って、ヒトの数ほど多種多様。だから、どんな形のものでも、法律でも、
あっちを立てればこっちが立たず。。っていうようなのはすっごく多い。
っていうか、みんなにハッピーなんて、アリエナイ。

そんな中、
「少数意見」って「誰の?」
ってのが、一番の問題になる。
結果的に、ニッポンは障害者運動としては、車椅子のヒトたちがずっと頑張ってきたので、
彼らの声が一番大きく聞こえる。(ってのはすずめの誤解です。ごめんなさい)その次は、ロービジョンでなくて、全盲。(ってのもすずめの誤解です。ごめんなさい。っと最初から謝っちゃうけど)
で、ナンタラ病とか、よく分からない複雑なモノは、仲間も少ないから、行政への声も届かない。
多数決の場では、この声の大きさで「少数意見」の中が更に分かれてるコトになる。

そんなのアタリキシャリキな中、どれを選ぶか。
結局は、マスコミ受けの良いモノになる。


「少数意見を尊重」イコール、多数決なんていうのは、単なる手続きにすぎず、最初っから結論は決まってるってコトじゃないだろうか?天才の独断によって。
それって、要するに、独裁と似てる。
そして、それって、場合によっては、更に不公平に感じちゃうってコトないだろうか?

っていうすずめ的多数決の限界。


また、長くなったので、続きは明日。


-----


じゃあ、
どうすりゃ、良いんだろう。

多数決に問題があることなんて、本当は幼稚園児でも知ってる。
だけど、ニホンのエライヒトも、アメリカの大統領も、それで決められてる。
なぜかというと、
多数決は別に良いアイデアが無いっていう事に尽きるんだろう。


そこで、
熟議の民主主義ってのがあるんだそうだ。
このコトバ、初めて聞いたんで、
最初は熟慮の民主主義かと思ったんだけど、ぐぐると、
熟議の民主主義って言葉が出てきたんで、こっちだろうな。


たとえば、ココに書いてある。

http://www.csdemocracy.com/ronkou/tamura091110.html

ここで注目されるのが、熟議民主主義である。「熟議」とは、「熟慮し議論する」ということだ。自分の意見をできるだけ明確に述べるとともに、他者の異なる意見にも真摯に耳を傾け、納得したり自分の誤りに気づいたら、自分の意見を修正する。それは、「ごり押し」や「固執」や「論破」ではない。熟議民主主義は、集計民主主義の問題点を乗り越える可能性を秘めている。投票サイクルの状態は、それぞれの見解を修正し合うことでしか解決しない。現代社会には、唯一の「正解」を見出しにくい社会問題が多数存在しているとなれば、なおさらである。政治が素朴な「世論」に左右されたり、「利益誘導」の場にならないためには、何が妥当なのか、何がなされるべきなのかについて、世論そのものの質を高め、「よく練られた世論」によって政治家をコントロールすることが必要である。
うーん。

理屈としては分かるかもだけど。


何か、すっごく恣意的な気がする。
多数決って、分かりやすい。みんなで投票して、数の多いのに決めれば良い。
だけど、コレって、平たく言って、どうすれば良い?
決を取る前に、みんなでトコトン議論せよってコト?
トコトンってどのレベル?
1時間?10日?
パワポとか、資料とか使う?
会議室で?居酒屋で?

メンバーの中に口がよく回るセンセイとかいる?
スレスレで見えそうなミニスカートの美女とかいる?

国立行政法人仕分け会議

1参加者 町のおじさん プラス 美女 @居酒屋
2参加者 町のおじさん プラス 東大教授 @会議室

同じ時間熟議しても、結果は全然、違いそう。。。
でも、それがどういう結果になるか、ウスウス分かるんで、最初っから、助っ人を美女にするか、センセイにするか、ちょい、手心を加えれば、結果は自由自在。


ところで、この日、イロイロ政治系のヒトたちも来てた。
で、すずめのした素朴な質問。

「政治家さんっていろいろいると思うんですけど、その中で誰が良いかって、分かんないんです。政治家としての能力っていうか、スキルとか、偏差値にできないんですか?たとえば、柔道家のヒトとか。。偏差値どれくらいなのかとか。。」

そうそう!、って意外に立派な哲学系のヒトたちにもウケタ気がするんだけど。
(っていうお調子モノのすずめ)
どう考えても、スキルの無い、基礎知識の無い人には、政治は難しそう。
騙すのは簡単そうで、騙そうと思ったら、素人ばかり入れれば良い。そうすれば、エライ政治家さんの言うなりの手駒だよね。
ってまあ、言うまでも無いことなんだけどさ。

でも、何で、政治にプロフェッショナリズムって問われないんだろう。
政治家としてのスキルが高けりゃ、少々フリンしてたって、オッケーだけどね。
ニホンはそれを問わないから、政策作成能力や政治的手腕じゃなく、全然関係無いコトで引きずり降ろされるんじゃない?


ってのは、ともかく。
元の、熟議の民主主義に話しを戻すと。。。

あ、その前に、
すずめのデザイナ的経験。


よく、いろんな場で、酷いデザインを見ることがある。
何で??っていうの、よくあるよね。
そういうのを見るたび、すずめは想像する。
ああ、みんなで寄ってたかって、こんなにしちゃったのね。。。

デザインって、デザイナが提案したそのままで通る時ばかりじゃない。
アレはダメ、コレ入れて。。。といろんな条件があったりする。
それだけなら良い。
「みんなで考えましょう」
みたいに素人さんが寄ってたかって来ちゃうコトもある。
「一緒に勉強していきましょう」
トカナントカ。
あのさあ。あたし、この道、ウン十年なの。何で今更、素人さんとオベンキョしなきゃいけないのよっ。
だけど。。。それが多勢に無勢で言えなかったりする。

(この部分には、すずめは怨念の思い出がいっぱいある)

そうすると。。。結果は最悪。
すずめはいろんな印刷やら複雑なテクニックを駆使して選らんだ黒を、
あのヒトは青が良いと言い、このヒトは赤が良いと言う。
そういう人たちに「なぜ黒」なのかというのを、統計やいろんな資料を集めれば説明できるかもだけど、そんな事するためには、デザイン作業の何十倍もの時間がかかる。。。なので、しょーがないから、青と赤の縞にする。
「あらあ、その方が全然、良いわ!」
っと一人が言うと、みんながそうだそうだ。。。ってなっていく。
そういうヒトにセンスがあるかどうか。。薄々服装でも分かるんだけど、それは言えない。
で、多数決。
デザインっていろんな理屈の上で作り上げてるものなんだけど、
いろんなヒトが、理屈を知らないで、勝手なことを言えば言うほど、ひどくなる。でも、その勝手なことを言った人には、何の責任も無く、酷いものに上がった場合はデザイナの責任なのだ。

デザインに対する「熟議」が3分なら良い。
30分もあったりしたら、エライコトになる。
熟議なんて、やればやるほど、ひどくなる。

「それはうまく、コントロールしていくということによって・・」
とかって、言われても、
それって、詭弁だとしか思えない。

ここにある大きな問題はプロフェッショナルと、素人とのスキルの差だ。
デザインなどという、形のあるもの、前例のあるものへの答えは、
プロフェッショナルは、もともと知っている。
結果として、「熟議」の成功とは、このプロのスキルをいかに損なわないで、最初に提示したデザインの通りにできるかという事でしかない。
そもそも、素人さんのアドバイスなど、プロには、何の役にも立たない。(きっぱり!)

それなのに。。。
最悪な事に、
熟議を重ねた上に、多数決があると。。。
結果的には、10人の素人の意見が一人のプロの意見に勝ってしまうという事になるのだ。
熟議でめちゃくちゃにして、みんなで多数決。
多数決までやられちゃった日にゃ、もう、デザイナには抵抗するすべは無い。
技術やテクニックは無視で、素人シゴトでやりたいなら、最初っからプロ抜きにすりゃ良いのに。
だけど、その素人10人の感性は、必ずしも何百万人もの消費者を代表してない。狭い密室で、「熟議」して作り上げた独特な空気の中だけでしか通用しないものだったりする。
市中で時々見る、ゴチャゴチャにいろんなモノが盛り込まれた稚拙なデザイン。きっと、そんな理由あるんだろーなっと、いつも頭をよぎる。

熟議
プラス
多数決。

まさに最悪のルール。

デザインっていうのは、技術の上にあるもの。だから。特殊なのかもしれない。

じゃあ、政治はどうだろう?
もちろん、スキルとか統計手法とか、論理性ってあるよね。
(逆にそれ以外、思いつかない)
だとすると。。。。デザインにおける熟議の多数決と同じなんじゃないだろうか?

---------


じゃあ、どーすりゃ良いんだ。


もちろん、答えなんて無いけど。



もっと、平たく、演繹的決定がされても良いんじゃないだろうか。
政治って、本当に、「多数決/民主主義」って方法を介在させなきゃ、成り立たないんだろうか?

よく、SFにあるけど、
コンピュータによる政治。
徹底して、論理的にのみ追求する。
すべての可能性を洗い出して、総合的、包括的に客観化させて、費用対効果の高いものを選択する。
もちろん、福祉だって、否定されない。(当たり前だけど福祉にはちゃんといろんな「効能」があるからね)
で、それでも、どっちが良いって言えないものはじゃんけんで決めちゃう。(オトナ的には乱数かな)
コレって、コンピュータにできる事かも。

ミソは、徹底した論理性。
誰か特定の個人のキモチは反映されない。事情は客観化され、重みに合わせて計算によって組み込まれるだけ。
そして、その結果も、論理的結論の範疇。
リスクも予め、分かっちゃう。

A案では今年の失業者は59043人でそのうち自殺者は23234人でしょう。
B案では失業者は444444ですが、自殺者は5930440人。
国家的損失としては、B案の方が大きいので、A案とします。
自殺予定のヒト、ごめんなさい。


みたいな。
って、コレ、すずめ風妄想SFの世界なんだけど。

だけど、それって、不可能だろうか?

なぜ、不可能なのか?
演算能力の問題?
それだったら、もしかして、解決の余地はあるかも。

だけど。。
本当のところは、「違和感」じゃないだろうか。
政治に対して、そういう論理性を求めていない。
なぜなら、自分だけの目線しか無いから。どんなに自分の中で決着がついても、全体の中でそれが論理的かどうかなんて分からない。それ以前に否定されちゃうそうだし。
だから、論理性より、「やさしい」だの「強い」だのっていうようなアバウトな形容詞が来る。
だから、いつまでたっても、政治スキルの客観化、偏差値なんて方向出てこない。
もちろんそんな偏差値、役になんて立たないし、あったって、どういう根拠が作れるんだかアヤシイものだ。
だから、私たちにとって、スポーツ選手も、家政科出身のかわいい女の子も、この道何年って政治家さんも、能力としては同じって、思っちゃう。


すずめ的にはそう、想像しちゃう。

でも、それって、これからもずっと続けてて良いんだろうか?
頭の良い、完全無欠のコンピュータの独裁政治の方が良かったりしないだろうか?


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月28日 (土)

サンデル教授@東大 すずめの感想 & 妄想

さて、すずめの感想 & 妄想

サンデル先生のいろんな内容。

結局は、


libertarian /libertarianism

VS

communitarian /communitarianism

ってなるのかもしれない。
何か、日本語にしにくいのは、communitarianismって、辞書には共産主義って載ってる気がするから。番組の翻訳でも、
リバタリアン コミュニタリアン とカタカナになってた。(他では分からないけど)


こういう話題になると、結局は誰もが極論を論じる。
5人の命 VS  1人の命


「じゃあ、6人とも全員、死んだっていいのね」
「じゃあ、アンタ、共産主義が良いの?北朝鮮に住みたいってワケ?」

ってな感じになる。

確かに,いろんな複雑な要素を絡めてしまったら、本質が見えなくなってくる。だけど、論点って、そこだろうか?
別に、私たち、ある日突然、全員がコミュニタリズムにハマっても、そんな明日から共産主義になるワケない。みんなが送っている日常生活はもっとアバウトで、刹那的で、温かいはず。


確かに、今、国会で論じられている、医療費や年金の問題の中核には、
個 VS 社会
があって、自らのサスティナビリティをかけて、赤か白か、1万円か、3049403909円(デタラメ)なのか、解答を出さなきゃいけない。
その行為、それから結論は全部、普遍化させて哲学論にまとめることができるだろう。
そして、哲学論には、たとえば、ソクラテスメソッドのような、解答を導くための方法論や、その哲学が持っている、結論への一定の是とする方向性があるんだろう。
だけど、本当に、そこから、解答を導いたとして、それは、みんながハッピーになれるものなのだろうか?
もし、日本が求めた「結論」を哲学が肯定したら、それは
「哲学者さんも肯定するんだし、きっと正解なんだわ。」
って思って良いものなんだろうか?

そういうの、ちょい、疑問だ。
そして、その疑問は、また、後で書く、ちょい怖い危険にまでつながってる気がする。

もうひとつ、
すずめがちょい、気がついた、コト。


サンデル教授の出したどの命題も、答えを出せと言われたら、出し辛いものばかりだ。あそこで意見を「黒です」「赤です」「ヴィリジアンライトチントです」トカナントカ、言った人達も含めて、どちらか一方が「正解」と信じてる人はいないだろう。誰もが、両方の可能性があり、日によって、相手によっては、赤になり、プルシャンブルーになったりする。そして、それを確固たる信念を持ってる風に言う時もあれば、まあ、チョイ、そう思うんだけどね.位のときもある。
だから、少なくとも多数決することに意味が無いのは確かだ。
だけど。。。ちょい、すずめが気がついたのは、
多数決するなら、良いテクニックだってコトだ。


どの命題も確固たる答えは無い。だから、すずめみたくアバウトなヒトは、どっちでも良い。
だけど、
「東南アジアとか韓国に後の世代も謝罪しなさい」
って言われれば、それは、大変だなあって思う。
だけどね、「白村江の頃のまでって言うはず無いんだから。。。なら、いつまで?」
って考えると。。。
何か、答えが出てきちゃう。だって戦後65年。昨今、戸籍上200年生きてるヒトもいるけど、普通は、あと、30年程。お母さんを殺されて,哀しい運命を辿った人をプラスしても、あと50年。しかも、その人口はどんどん減っていく。。。
ってすると、それって、いくら?
って、かなり有限な数字になってくる。
その数字があると、そもそも、どっちでもいっかってすずめみたくアバウトな人には、「じゃ、オッケー」って、言いやすくなる。

極論対極論だと、絶対オッケーできないけど。
この
個 VS 社会
では、「ここまで」っていう線引きをしてやることによって、
劇的に許容度が増す。

ところが。。。
いつも語られるこの論争は「限界」を提示しない。
自由診療を許したら、日本はアメリカみたくなって、みんな死んじゃう
とか
プライバシー侵害法律を作ると、すずめのハダカも全部見放題

みたいな。。。でも、実際、すずめのハダカなんて見たいヒトいるワケ無いし、そういう極論は無意味なんだけど。。そういう反論をしてる。
実際は、一つ許すと、ずるずるどこまでもどこまでも許していく図式が怖いからNOなワケだ.消費税だってそうだったしね。
だけど、この「どこまで」という限界を論理的に担保できれば、
ヤブサカじゃないよ。そういうの、学問の世界ができないモンなんだろうか。


っていうすずめの感想、その1


さて、次はすずめの妄想的感想  


ちょっと前、NHKの番組で
色付きの悪夢

みたいな名前の番組があった(調べれば分かるかもだけど)

これ、要するに。。。
戦時中のいろんな白黒フィルムを画像処理して、カラーにしているのだ。
その当時のいろんな文献や遺物をもとに、「色」をつけていく。
軍服の色は博物館に残ってるのはコレだから、モスグリーンに
みたいな。

そうすると、
わあ、ノーマンロックウェルみたいじゃん。
な〜んて、バチ当たりなすずめは思っちゃう。
あ、ごめんなさい。こういう軽いヤツなんで。。。

そして、
わあ、ヤバっ。っと思ったのが、ナチのフィルム。
誰かについ、口を滑らせたら、
「そんな事、言うべきじゃないでしょ!」っと怒られちゃったけど、
正直、
ヤバっと思うくらい、カッコ良かった。
あの色、単なる赤じゃなく、緋色っぽい、それでいて、ワインカラーのようなコクのある赤。
めちゃめちゃ、イイ。
ナチに対して、いろいろもちろん、知ってるけど、
目に焼き付いてしまった色,カッコ良さは忘れられない。
多くの人が煽動されたのが良く分かる。

つくづく。。。あの時代に生まれないで良かった。。。

さて、サンデル先生はもちろんヒットラーとは似ても似つかないんだけど。


この講義、ホント、魅力的だった。
素晴らしかった。
刺激に満ちていて、感動しちゃった。

こういうの、良いよね。
また、他の人でもやったら、おもしろい。

たとえば、温暖化に関してもいろんな議論があるけど、
こうやって、聴衆を巻き込んでいくのってどう?
マイミクの宇宙人教授がやったら?
あ、宇宙人教授より、
もっと、若くて、イケメンで。。。っていう人選したら、
若いミーハーな女の子も来るかも?

もちろん、イケメン教授にはベテラン教授程の能力無いだろうけど、
だけど、パフォーマーとして訓練させればどう?

こういうの、演出、大きいよね。
聴衆を当てる時の視線とか、切り返しとか、
最初に『アキラ君』みたいな子を用意して。


サンデル先生の授業は、大学の中の、学生へのものだった。
そして、彼は決して、自らの哲学の方向性を学生に押し付ける事無く、学生たちを、自然に、自ら考える人となるよう、育てた。。。
だけど、もし、ここに何らかの意図をもって、恣意的に、構成してったらどうだろう。パブリックミーティングに出て来る政治家さんは、それほど、魅力的じゃないけど、タレント事務所から探してきて。。。
たとえば、消費税上げても良いよねとか、年金チャラにしよう。。。とか。
何らかのテーマを恣意的に訴えていけば。。。

すずめみたく、能天気なお調子モノは、ソッコーで洗脳できちゃう。

最後の鼎談では、
しきりに「大学同士でコラボ」みたいなのを言ってらした。
それを聞いて、
あらぁ〜。大学だけじゃなくて、オトナにも開放して欲しいじゃん。
って、トウのたったオトナたちはみんな思ったはず。
だけど、コレを市民相手に初めて。。。。
そのバックに、電通だのナントカタレント事務所だのが関わってきたらどうなるか。。。


世の中のみんなが理性的で賢いワケじゃなく、
すずめみたいなヒトもいるんだし、そっちの方が人数的にも多いんだし。


なんていう、事が頭をよぎるぐらい、
ヤバい魅力に満ちた、サンデル先生。

ハマってしまいました。


っていう感想でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サンデル教授@東大 レポート


白熱! マイケル・サンデル教授の特別講義に出席しよう

http://www.asahi.com/national/update/0825/TKY201008250419.html


25日のサンデル先生の講義のレポート。


この日、すずめは30分程前に着いた。言わずと知れた猛暑の中、「最後尾」と言っても、1、2m?の列に並んでいると。。。
サンデル先生、ご登場。

受講者と握手をされて廻っている。
ラッキーにも、すずめの所にも。。。
Nice to meet you.
って。。。。
私、デザイナなんです
>じゃあ、こういうディベートとか、どう?
あ、経験したコトありません
>あそこの人達は、どうかな、きっと、すごいよ。
わあ、楽しみですっ!

みたいな。。。


会場は1100人
そのうち、NHKの枠が公募で500人、そこへ8000人の応募があったのだそう。
すずめは二階席の後ろ...残念、応募するの、締切りギリギリだったし、。。会場には、この猛暑の中、キモノを着た女性やお坊さんもいる!
みんな気合いが入ってるのねっ。

という中での講義開始。

「日本人はとってもシャイで、こういうのに慣れて無いって言われたんだけど。」
それだけで、会場から笑。この程度の事で笑わせちゃうっていうのは、彼の魅力なんだろうな。本当のユーモアのある人なんだろう。


ちなみに、彼の放映された講義はここで見られる。

http://www.justiceharvard.org/

この中でも、会場が大爆笑しちゃうシーンなんかもあるけど。


さて、彼の講義の最初は、
この例から始まった。

サンデル先生の著書 “これからの「正義」の話をしよう”の第一章にも出てきた、ボートの話。

早川書房のホームページからダウンロードが可能。
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/112569.html

海の真ん中で救助を待っている小さなボート。
全員が飢えている。そこで、1人の弱った船員を殺して食べて,生き残ったケースがある。
これはどう、思うか。
是 か 非か


会場からは、『アキラ』君っていう、とってもおもしろい、素朴な?キャラの子が、それに対する反応のティピカルな返答。
その素朴さに、会場が和む。。。

っていう、感じに、ディベートモードに1000人の聴衆が突入してく。


--------

さて、この日記にも質問があったけど。。。
「1人を犠牲にして5人を助ける」
コレと同様の命題。
サンデル先生の授業には、頻繁に出て来る。


ちょい、寄り道して、
http://ja.wikipedia.org/wiki/マイケル・サンデル

サンデル先生をWIKIで引くと。。。


マイケル・サンデル(英: Michael J. Sandel、1953年3月5日 - )はアメリカ合衆国の政治哲学者。アメリカのコミュニタリアン。ハーヴァード大学教授。コミュニタリアニズム(共同体主義)の代表的論者。道徳や正義を強調する点に特徴がある。


って、出て来る。
そう、コミュニタリズムのテーマとして、
個人の事情 VS
みんなの利益

というテーマになってくワケだ。


1人を犠牲にして、
5人が助かることは、是なのか、非なのか。

これには答えがある訳が無い。
しかし、一人一人が多少の主張や方向性を持っているだろう。
それを、オーディエンスから引き出して、双方からの意見を提示させる。

「1人の(弱っている)人を犠牲にして5人が助かることには、社会的に利益がある(もし、食べなければ、6人が死ぬ)」
「人の命はそんな、人数の多さによって決められない。比べられないものだ。」

サンデル先生は、そこまでしかしない。ココから解答を導くことも、進むべき方向性を示唆することも。
しかし、問題の中核がどこにあるか。それをベクトルとして誘導していく。

たとえば、この問題は、
次に、集団と個人における価値とは何かと言う問題につづき、そして、私たち個人に対して、集団はどのような関わりを持っているのだろうか。。という帰属の問題になっていく。
そして、そこまで考えた時、もしかして、その思考の方向性は、何かの非常に現実的な、命題に対する解答に、影響があるのかもしれない。。。

次に出て来たのは、
価値観の問題。

この会場に、先生っていう職業の人たちがたくさんいると思うけど、
彼らの報酬って、いくら位だろう。

じゃあ、一番、高いお金、貰ってる人は?
『イチロー!』
イチローの報酬って、先生の何倍?
オバマはどう?

この、イチローの報酬って、正当?

それに対する意見はすずめが書くまでもない。

大統領の仕事、
イチローの仕事 能力、努力。。。
その価値を支えているもの。
価値と言う概念を作り出したもの。。。。

様々な視点からの意見が出て来る
むしろ。。。
ハーバードでのものよりも、突っ込みが深いのではないだろうか?
(みんなモトネタは聞いてるし。)

ちなみに。。。
一つ前のページでも紹介したサンデル先生の言葉、
とっても分かりやすい。声が良い。
会場では通訳のレシーバも配られたのだけど、ナマで十分分かる。
会場からの答えの多くは、かなり達者な英語でされていた。


授業は、30分の挨拶、紹介
70分の講義が20分の休憩を挟んで2回
だけど、いつのまにか、1時間オーバーして、
結果的に、200分ものぶっ続け講義の場になった。
最後には、30分の鼎談。

さて、ここまでは、
ハーバードでの講義に出てきた内容で、そこそこ誰でも想像できるモノ。
次は、
ちょい、すずめもびっくりした、熱いディベートについて。

--------

さて、

今回のこの講義で非常に,面白かった、ちょい、びっくりのテーマ。


その前に、この講義の環境を言っておくと、
もともと、募集の時から、コレはテレビにとかに放送されちゃうかもしれません。そのコトを了承の上、応募してくださいってコトだった。
だから、もし、ココで当てられて何か意見を言ったら、それが日本中に放送されちゃうばかりか、たった小さな一言でも、そこだけピックアップされて、何度も繰り返し流されるってコトにもなりかねない。。。。周りのヒトたちからは、「あはは、ああいうヤツ」みたいなキャラに仕立てられかねない。っていう環境が前提。


その中での、授業。
サンデル先生の授業は、一つ一つの具体的な事例に対する討論で構成されてるんだけど、すずめ的に解釈すると。。。


1人の利益 VS
集団の利益

ここには答えが無い。では、それを考えるよすがとしては、何か。
一人一人が、そして、集団が持っている、価値観に左右されるんだろう。
そして、その価値観を裏付けするものが、道徳。


ってなカンジになる気がする。

っていう所から、すずめ的にも、「じゃあ、その集団は個人をどう、幸福にしてくれたり、規制したりできるのか。。。」っていう風に疑問が湧いてくる。。。って中での


次の、爆弾的話題。

私たち日本人/個人は、どこまで、社会に対して、責任を取るのか。
たとえば、
戦争中、日本が、東南アジアの人達に行ったと言われる罪に対して、
今の人達は、謝罪すべきなのか。
もし、購うとしたら、どう、すべきなのか。


ちょい、びっくりじゃない?
それって、ある種の人達には、かなり疑問らしく、やっと教科書に載り始めたばかり。それを、オトナが論じて、夜道で刺されなきゃいいけどねえ。

でも、会場の雰囲気というか、サンデル先生の論調には、「疑問の余地無い事実」である。という感じだった。

さて、
いろんな人の意見

「事実は事実として、認めなければならない。だけど、それを今の世代が詫びるということには意味が無い。」
「では、いつまで詫びるべきなのか。」
「それは、被害を受けた人達が痛みを忘れるまで。痛みは決して忘れ無い。」
「僕は日本で育った韓国人だけど、どう考えるべきか。」
「私たちが育ったのは、日本という国の風土の中なのだから、日本という国が集団で冒した罪に関しても責任を取るべき。」
「いつまでに対して:まさか、源平の時代まで遡れという人はいないだろうから、今の世代までで良いのではないか。」


そんな。。。。おそらく、こういう命題を聞くと、誰でも思う所のいろんな意見が出てきた。。。

サンデル先生の挑戦は、更に続く。

「では、アメリカが広島、長崎に対して行った罪に関してはどうか。やはり謝罪すべきなのか。どう、すべきなのか。」

ちょい、びっくりの、この問いに、一瞬、会場も怯んだ気がした。
「謝罪すべき。」
「核の問題として考えるべき」
「誰がというと、オバマさんがということになるかもしれないが、意味があるのか。その時の政府の決断」
「私たちは生まれる場所を選べないのに、過去に前の世代が冒した罪に関して、謝罪しなければならないのか。」
「でも、前の時代があってこその、今の時代がある。」

っていうまさに、白熱。
もちろん、答えは出ない。
サンデル先生も言わない。

最後は、
全,聴衆が立ち上がっての大拍手。
感動的ですらあった。


-------
さて、
メインの授業、
70分 × 2 が一時間以上オーバーしちゃったらしいんだけど。
すんごい、熱気だった。


最後はステージの真ん中に、椅子が3つ並べられて。。。
3人のセンセイが対談。

1人は、東大の哲学者
もう一人は、千葉大の、例の白熱教室の授業のテレビで解説してたヒトね。
名前,調べれば分かると思うけど。

どうでしたか?

いやあ、感動的ですらありました。
こういうの、良いですね.的な会話があって、

もともと、こういうの、
ソクラテス メソッド
って言うんだそう。

要するに、聴衆に何か応えさせて、その反応/意見で何らかの解答を導いていく。だけど、このもともとのソクラテスのやり方も、良いってワケじゃなかった。時として、反対意見の人を糾弾しちゃうような。
千葉大の先生の方は、このサンデルメソッドを授業でもやってるんだけど、
やっぱり、最初は意見が出てこなかったり。。とかイロイロあるそう。
この東大では白熱したけど。。。だけど、ココに来たヒトたち。応募は8000人もあったとか。東大も東大枠の300人ってあっという間に埋まってしまったし、もう、特別な人達の集団。いつも、こうなるなんて思っちゃいけないよね。
なーんてハナシから、
これから、こういう試み、おもしろい。
世界中で、いろんな大学とかとタイアップしてできたら良いね。ウェブとか使えるし。
って、わあ。楽しみ〜。

っていうので熱い時間は終った。


っていうのが、講義のレポートで、
すずめの意見は次の日記に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サンデル教授@東大 1/行きました!

■超人気の哲学講義、サンデル教授が東大で語る
(読売新聞 - 08月25日 22:39)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1320699&media_id=20


とっても、刺激的な講義でした。

興味深かったのは、最後のテーマ、東南アジアの人達に前の世代の罪の謝罪をすべきか。。。そして、アメリカ/オバマは広島 長崎の謝罪をすべきか。これをコミュニタリズムVS個人主義の議論の延長で考えていく。。。サンデル/ソクラテス方式は、市民を巻き込んで哲学を作っていく。


あまりに魅力的、サンデル先生の講義。
それだけに、威力もすごい。逆に使えば、市民をある一定の方向に煽動していくことすらできるかもしれない。

これを「学生への講義」としている間は良いけど、
訓練されたパフォーマーがやったら、
それだけでは済まない、力があるかも。

という恐怖を感じるぐらい、
刺激的で、すばらしい講義だった。


ってコトで詳細は次の日記に

| | コメント (1) | トラックバック (0)