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2014年8月 9日 (土)

長崎:平和宣言の歴史

長崎の最初の平和宣言をみつけた。1948年。
「市民代表」となっている。

長崎平和宣言
1948年(昭和23年)
 わが長崎の地は、世界における原爆の基点として世界戦争に終止符を打った土地であって、この原爆の未曾有の惨禍を一転機として平和な明るい希望がもたらされた。
 その意味から長崎は世界的な地位において最も印象の深い土地であり、アトム長崎を再び繰り返すなと絶叫することによって、恒久的平和は確立するものと信じて疑わぬ。
 我々は、この文化祭の式典に当って、ノーモア・ナガサキを力強く標ぼうし、広く世界に宣明せんことを期し、ここに宣言す。

1948年(昭和23年) 8月9日
市民代表

この年、1948年は、ビキニ実験が行われ始めている。その中での長崎での核廃絶への叫び。
その意味や真摯な想い、リアリティは今とは全く違う。

つづいて、翌年は、

長崎平和宣言
1949年(昭和24年)
 長崎市は原子爆弾により世紀の戦争に終止符を打った世界戦史上明記され るべき都市である。長崎市民は、その悲惨苦を通じて戦争が全人類を破滅に導くことを信じ、長崎における原爆を最後として再び人類が戦争の脅威におののくこ とをなくし偉大なる原子力は世界平和のため人類の福祉に貢献せられんことを熱願するとともに、本日の祈念式典に当り国際文化の向上と恒久平和の理想達成を 目的とする国際文化都市建設法の精神に則り厳粛にして誠実なる世界平和の原動地として全世界に誇る文化と平和の象徴都市を建設せんことを宣言する。

1949年(昭和24年) 8月9日
長崎市長 大橋 博

宣言は長崎市長となっている。

しかし、この翌年、1950年には平和宣言は行われていない。
1950年といえば、朝鮮戦争の年だ。
そして、翌年は平和推進市民大会によるものになっている。

長崎平和宣言
1951年(昭和26年)
 われら日本民族は過去半世紀帝国主義的侵略を行い武力をもってアジアの隣国を侵してきたのであるが、近代兵器の最高峰、原子爆弾によって戦争は終止符をうたれたのであった。われら長崎市民は広島の同胞と共に、日本の犠牲となり、世界の試験台となったのである。
 嗚呼、恐ろしい想い出の日が六度巡ってきた。8月9日午前11時2分、原子爆弾の一瞬によってわれわれの親兄弟妻子の尊い血潮がこの長崎の地を紅に染め上げた。
 この尊い体験、あまりにも高価な犠牲の体験から今やわれわれは大胆素直に戦争絶対反対を叫び、平和日本憲法を守り、原子力を平和の手にする猛運動を巻き起こし、人類の平和維持のために闘はんとするものである。
 平和はあくまでも平和的手段によってのみ生れ出る。
 この故われわれは相対立する国家群をはじめ、何れの国々とも友好関係を促進し、一方的講和条約をしりぞけすべての交戦国と等しく和解の講和を締結し、恒久平和を推進していかねばならない。
 原爆の地長崎より平和を絶叫するわれわれの雄叫びは必ず大きな流れとなり日本のみならず世界各国のすみずみまで流れほとばしるであろう。
  ここにわれわれは再びあのいまわしい8月9日の惨状を再現させないために平和を祈念するあらゆる民主的諸団体ならびに宗教諸団体が相提携し、世人の良心に 訴え世論をかん起し、固い団結をもって25万市民が打って一丸となり、平和運動を推進し全人類の繁栄のために闘うことを宣言するものである。

1951年(昭和26年) 8月9日
平和推進市民大会


この年、サンフランシスコ講和条約の調印が9月8日に行われている。
「この故われわれは相対立する国家群をはじめ、何れの国々とも友好関係を促進し、一方的講和条約をしりぞけすべての交戦国と等しく和解の講和を締結し、」ということであったのだろう。

そして、その翌年から、毎年、今に至るまで、市長によって平和宣言は行われてきた。
私の個人的なイメージでは、広島と長崎の市長は特別。。。平和宣言を行うのだから。というイメージがある。だから、長崎市長が襲撃された時もショックだった。


長崎平和宣言
1952年(昭和27年)
 今や世界は、冷たい戦争の様を呈し、再び戦争への不安感をつのらしているが、わが国は独立国として、平和憲法のもと、世界の恒久平和に貢献せんと決意している。
  わが長崎市民は原爆の悲惨苦を身を以って体験し、原爆戦による惨禍が人類の一大破滅を招来することを恐れるが故に、原爆7周年の記念日を迎えて人類愛と文 化の交流を基調とする国際親善をはかり、国際間の紛争防止に努め、以って世界平和の悲願を達成せんことを全世界に向かって茲に宣言する。

1952年(昭和27年) 8月9日
長崎市長 田川 務


長い歴史の中、いろいろなことがあるわけだが、
一つ、興味深い事を見つけた。

長崎平和宣言
1962年(昭和37年)
 長崎市に原爆が投下されて以来17か年、われら長崎市民は、平和推進の 使徒たらんとして、ひたすら世界恒久平和実現の祈りをささげ諸国民にそれを訴え続けてきたのである。しかるに期待に反し、流血の惨、世界の各地にそのあと を絶たず、またしきりに核兵器の増強を伝え、人類の危機感が醸成されつつあることは、まことに遺憾に堪えない。
 長崎市民は自ら体験した原爆の威力とその被害と悲惨、きょうに続く業苦にかんがみ、人道の名において原水爆の廃棄を強く訴え、更に一切の戦争をこの地上より排除すべく、諸国家が融和、強調することを切願する。
 長崎市民は、えい知と正義と愛とが変わりなく人類総てのものであることを信じ、世界恒久平和の実現のため新たなる決意を固め、一意てい身することを誓う。
 ここにこれを宣言する。

1962年(昭和37年) 8月9日
長崎市長 田川 務

1962年の平和宣言である。1962年と言えば、キューバ危機である。しかし、キューバ危機は10月14日からの2週間。この平和宣言の時は、まだ、始まっていない。が、このころ、世界の「終末時計」は着実に針を進めつつあった。そんな中での世界への危機感だったのだろう。

もうひとつ、興味深い変化がある。
言葉の 常体から敬体への変化だ。
(本当にそれでスピーチされたのかどうかは分からないが、記録としては、この形になっている)

1980年と1981年。この年を境に、以後、今に至るまで、敬体での宣言になっている。

長崎平和宣言
1980年(昭和55年)
 昭和20年8月9日。長崎市は人類の想像を絶する焦熱地獄と化し、7万有余の尊い生命が奪われた。
 あれから35年、いまもなお、数多くの被爆者が後遺症に苦しみ、死の影におびえ続けている。
 戦争の惨禍を受けた国民が歳月の流れとともにその精神的・肉体的痛みが薄れつつあるとき、被爆者の苦悩は深まり、激しくなっている。
 いまここに、被爆者、遺族、青少年はじめ、市民、国内外の人々が相集い、原爆によって死亡した方々のみ霊の前にぬかずき、心からその霊を慰め、ごめい福をお祈りした。
 われわれは、原爆のためにたおれた肉親や隣人の悲しみと恨み、平和への願いを深く心に刻んでいなければならない。
 後世の史家は、必ずや、原爆投下の残酷さを20世紀最大の汚点の一つに数えるであろう。
 長崎市民は原爆の悲しみと憤りの中から立ち上がって、核兵器の廃絶と全面軍縮とを訴え続ける義務と責任、そして使命感を持つものである。
 思えば、いまやかすかにさしそめた国際間の緊張緩和の曙光さえかき消され、核兵器開発競争はますます激しさを加え、今年の核実験の回数は昨年をはるかに超えた。長崎市がこの11年にわたって行ってきた188回の核実験への抗議は、完全に踏みにじられてきた。
 核保有国は、戦争抑止力という名のもとに、核武装の強化をはかりつつある。
 いま、この危険な方向を転換しない限り、地球上に真の平和と繁栄はあり得ないことを確信する。世界に蓄積された膨大な核兵器は人類を幾たびも絶滅させ得る量に達しており、技術的、管理的ミスによる核戦争偶発の危険性も強まっている。
 人類は、滅亡の道を歩もうというのか。
 時は迫っている。
 世界の良心はいまこそ、ナガサキの声に耳を傾け、英知に目覚め、核兵器の廃絶と戦争の完全放棄を実現するために、行動と実践に立ち上がらなければならない。
 被爆体験の継承は、長崎・広島両市民にとどまらず、国民の、いな全人類の課題として協力に推進すべきである。
 いまや、真の平和の実現のため、人々は国境を越え、信教・信条を越えて、必死の努力を払っていくべきときである。
 われわれは、ここに、日本国政府が核兵器の完全禁止と全面軍縮への決意を新たにし、国家補償の精神に基づき被爆者援護対策の確立をはかるよう強く訴える。
 ここに、原爆犠牲者のごめい福を祈り、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向かって直進することを、全市民の名において内外に宣言する。

1980年(昭和55年) 8月9日
長崎市長 本島 等


長崎平和宣言
1981年(昭和56年)
 長崎の皆さん、日本全国の皆さん、そして全世界の皆さん。
 きょう8月9日は、悲しい長崎原爆の日です。
 私たちは、原爆で亡くなられた数多くのみ霊のごめい福を祈り、またいまなお後遺症で苦しむ被爆者を励ますために、そして再び世界に核戦争を起させないことを誓うために、この原爆の丘に集まりました。
  年老いた被爆者、被爆者の2世・3世、遺族、小中高生、市民、そして全国から、また外国からたくさんの皆さんが参列して、花を供え、水を献じて、鎮魂と平 和への決意を新たにしています。式典に参列できない寝たきりの方、一人ぼっちの方も、手を合わせてお祈りしていることでしょう。
 いまわしいあの焦熱地獄が、きのうのことのように思われます。悪魔のような熱線・爆風・放射線は、親兄弟も、親しい友達も、隣人も、そして長崎にいた外国人の命も一瞬のうちに奪い、幼稚園・学校・会社・商店・工場は、廃墟となりました。
 あれから36年、被爆者の悲痛の叫び声は押しつぶされ、原爆の悲惨さ、その傷跡も忘れ去られようとしており、戦争そのものが風化しつつあります。
私の声の届く限りのすべての皆さんに申し上げます。8月9日を心に刻んでください。私たちは、国家補償による被爆援護の確立を要求し続けております。
 特に孤独・老齢化が進み、死を目前にした被爆者の実情に、国民の深い理解と協力をお願いします。
 社会の担い手も、戦争の経験のない若い世代に代わりつつあります。これらの人々に「原爆の悲惨さ残酷さをどう伝えるか。」「80年代の平和へのエネルギーをどうかもし出させるか。」これが、私たちに負わされた課題といえましょう。
 そこで、特に、教育者の皆さんにお願いしたい。
 核兵器をなくし、完全軍縮の実現こそが、人類が未来に生き残る唯一の道であることを、子供たちに、すべてに優先して教えて欲しい。平和こそ、私たちが子孫に残すただ一つの遺産なのです。
  世界の人々の平和を求める声は強く、1978年の国連軍縮特別総会でも多くの国々の関心が高まり、また、本年2月来日したローマ法王ヨハネ・パウロ2世 は、平和アピールの中で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことだ。」と指摘し、全世界に平和の力強い叫びとして伝えられました。
 しかし、いつまで続くのか。核兵器の拡大競争と核兵器を持つ国の増加は、恐怖の均衡のもとに破滅へ向かう絶望の世界と言えないでしょうか。
 核兵器を造る国々の人々に訴えます。私たちは、今まさに、人類滅亡の淵に立っております。核兵器の生産をやめ、その費用の一部を使えば、世界各地の数億人の飢えと、第三世界の貧困は解消されるでしょう。
次に考えなければならないのは、日本の国是としての非核三原則の一つ『核兵器を持ち込ませず』が揺らいでいることです。今日核の寄港、通過があったと信じている多くの人々の声に耳を傾けてください。
鈴木総理大臣は、直ちにこのことに対処して真実を国民に知らせてください。
 廃墟の中、絶望と飢えに耐えながら、戦争放棄と永久の平和確立を誓った日本国憲法の精神を思い起し、将来にわたって核兵器の廃絶、完全軍縮、恒久平和を国是として積極的に外交を進め、決してどの国をも敵視しない国の方針を打ち立ててください。
 また、来年の第2回国連軍縮特別総会に向けて、世論を高め、対策を練り、実り多い結果をもたらすよう努力してください。
 特に、第1回国連軍縮特別総会の行動提起に従って、日本本土とその周辺を非核武装地帯とすることを宣言してください。
 ここに、被爆36周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を迎え、重ねて原爆殉難者のごめい福と原爆後遺症に苦しむ生存被爆者の健康と平安とをお祈りするとともに、世界恒久平和の実現に向かって直進することを、全市民の名において内外に宣言します。

1981年(昭和56年) 8月9日
長崎市長 本島 等

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長崎の平和宣言への歴史。
興味深い。

今日、8月9日

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