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2011年11月17日 (木)

文学とユーザビリティ

文字のユニバーサルデザイン:旧仮名遣い

すずめは昔むかーし、バリバリの文学少女でした。
学生時代は文庫本しかもちろん買えなかったんですが。。。ものすごいいっぱい保有してました。今の家に引っ越しする時、本の段ボールだけで、54個。本当はその2倍はあったけど、やっと処分して、その量。それも、ビッチリ本ばっかし詰めたのばっかりなので、非常識に重くて、引っ越し屋さんにも、イロイロ言われました。その何割かを何年か前に大処分。今になって、大後悔してます。

その理由。


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誰でも、困ってると思うが。。。
本の処理。最近はリサイクルがスムーズだが、手元に置いておきたいものもあるし、毎月一定量のモノも送られてくるし、資料などは、電子媒体になっているものばかりじゃないので、増える一方。気をつけないと、あっという間に本棚はいっぱいになってしまう。

さて、すずめ。
ご多分にもれず、ものすごい量の本を持っていた。何年か前、思い切って全部、捨てるスタンスで行く事に決めた。
考えると、古本だってアマゾンで買えるのだ。
それだけじゃなく、かなりいろんなものが、ネットで見られる。もう、本の時代じゃない。

ということで、思い切って大処分。この家へ引っ越した時の半分以下だろう。

しかし、今、ちょっと後悔している。もう、買えないもの、あったのだ。


それは「書体/仮名遣い」だった。

捨てたものには、大量の岩波文庫が含まれていた。昔の岩波文庫。茶色っぽい油紙に包まれて、決して保存用じゃあない。それに斑にシミがついて、見るからにボロボロ。。。。。うーーん。惜しい。
とは思ったが、思い切って捨てた。

しかし、今になって気がついた。
最近の竜之介の文庫のページを見ると、やけにさっぱりしているのだ。
??
わかった!
仮名が新仮名遣いなのだ。もちろん、文字も新字。
当たり前といえば当たり前かもしれない。

昔の岩波文庫、小さな文字が黄ばんだ紙に印刷されていた。明朝体も、おそらく石井明朝他、クラシックな組版の時代のもの。文字の形も、昨今のモダンタイプの書体と違って、複雑なフォルムをしていた。
当時は文庫のほとんどがそんな感じで、唯一、旺文社文庫だけが、若者向けに大きな文字で、こぎれいに印字していた。でも、バカっぽくて好みではなかった。今の本は、昔、「バカっぽい」と感じた、ページデザインが当たり前になっている。
こっちに慣れてしまうと、もう、後戻りできないだろう。というより、今の若者は旧字のものは見た事は無いのだ。慣れも何も無い。
画数も多く、書体のフォルムも原始的。もちろん、字も小さく、難解。
若者にも、高齢者にも、大多数の読者にとって、今のデザインは読みやすく、まさに、ユニバーサルだと言える。

しかし、どうなんだろう。
竜之介はもちろん、旧字で書いている。仮名遣いもそうだ。それを新仮名遣いに直したということは、翻訳だとも言える。ナマじゃないのだ。
時代の流れなのか。。。むかし、言文一致運動で文語体が消えていったように。


かと言って、今更、誰も旧仮名など、日常的に書かない世代が、マネて書いた作品があったとしたらまさに茶番。文語にしてもそう。だから、今の時代の作品が、新しい革袋に入れられるのは良い。でも。。。昔のものは違う。

昔の凸版の組版の時代、写植の時代、それから比べて、テキストファイルでの保存ができる今は、はるかにフレキシビリティが高い。しかし、書体や仮名遣いまではカバー出来ていない。

仮名遣いだけでなく、翻訳も、そうだろう。手塚訳のゲーテ、水上訳のニーチェ、福田恆存のワイルド。。。。朝吹のサガン、海潮音は残るだろうが、堀口の月下の一群はどうだろう。なつかしの福島正実、むらおかはなこ、あんなのが再評価されることは無いだろうなあ。逆に著作権の問題で面倒だろう。

こういう本は、もともとが、デジタル化されていない。版が無くなり、現物が無くなれば、この世から消滅する。
この世のもの、すべて、形のあるものは、いつかは消える。
それが消えない、複製が永遠にできるような形、それが「デジタル」。
デジタルという生き残るための「実体」を持たないモノたち。

ユーザビリティは市場性も左右する。
現代に生き残る形を持たない、ホンモノたち。


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もちろんね。今だってまだ、古本屋に行けば大量に残ってます。いくらでも買えるはず。もしかして、市場に出回ってるのを回収するのは、今が最後のチャンスかも。
でも、わざわざ買うっていう程のガッツはないなあ。うーん。

いつも他力本願のすずめですが、
皆様、
そういうの、
捨てないでやってくださいませ。

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「てふ」「てふ」はチョーチョーと讀むべからず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の翼の空氣をうつ感覺を音韻に寫したものである。

っていうのがある。かの朔太郎が注釈に書いた言葉。
高校の頃、これを呼んで、頭から離れなくなった。「てふ」をチョーと読めない私の日本語の欠陥。これは誰のせいなのか。

もう一つの記憶。10年以上前だと思うが。。。
アマミノクロウサギ他が原告になった環境保護裁判。この時、思った。
(アマミノクロウサギっていうのが、かわいくってたまんなかった)
これにならって、5歳ぐらいの子を原告に
「私たちに日本語を習う権利を奪った国に賠償を求める」
っていう裁判、起こしたらどうなんだろう。5歳の子の親は「てふてふ」をチョーチョーとは読めない。その他の「を」などの発音も区別できない。5歳の子にそれを教える文化を奪った文部省(当時は)。
賠償は。。。もう、今更遅いので、(もし、取り戻したとしてももはや、現代の文化とは言えないだろし)全国の図書館を充実させるコト。


専門外のすずめが言うまでもないが、言語は、そうそう簡単に身に付くものではない。聞きかじりだが、音(言語)は、7歳?9歳?までに身に付くという。当時高校生の私が、旧仮名遣いを含む、日本語の音声を付け付け焼き刃で習ったからと言って、身に付く訳が無い。そういうのを、言語として身に付いているわけでもないのに、真似をするエセ懐古趣味はイヤラシイが、このまま放っておいていいものなのか。。。
聞くと、この仮名遣いを決めたのは、戦後の文部省。煩雑な日本語は子供には覚えにくく、それが日本の教育の弊害になるということで、バッサリ切ったのではなかったか。当時は教育熱心な親ばかりではなかった。そんな中、学力の底上げを図ったのでははなかったか。。。。っというのは、ウン十年前の記憶なので、今回、チョイ、調べてみた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/歴史的仮名遣
http://ja.wikipedia.org/wiki/国語国字問題

うん。やっぱし、オトナたちの、政治的な駆け引きの臭う政策によって、決められたワケだ。
昨今、若者の、言葉の乱れがウンヌンされるが、それどころのサワギじゃない。


しかし、視点を変えてみれば、これは、まさに日本語のユニバーサル化ということであったのかもしれない。

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ここで、しばし、脱線

ちなみに、この記事にでてくるいろんな人名、すずめは個人的趣味としてはキライな人ばかりじゃないので、その話題はスルー。
だけど、「言葉の乱れ」っていうと、エライ大人たちが言う、昨今の様々な流れ、あれはオッケーだと思っている。むしろ、豊かになっていると。「食べれる」も「KY」もオッケー。こういう中で、残っていくものは限られるだろうが、その淘汰の跡も含めて。
某英語の辞書の最初に、英語と米語の違いが載っているが、英語は17世紀からどんどん変わっていった。米語はその時代に伝えられて、その時の名残を残しているのだそうだ。言葉が、そうやって「自然」に変わっていくというのは、あるべき姿じゃないだろうか。

それに、メディアが言うほど、子供たちもバカばっかしじゃない。取材先にそういうのを選んで誘導尋問すれば、誰だってバカに見える。きちんと作文が書ける子は多い。(っていうより、よっぽど落ちこぼれていない限り、みんなそう)

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長くなっちゃった昨日の続き


で、ハナシを日本語の歴史的仮名遣いに戻すと。

なぜ、新仮名遣いにしたのか。
(概ね)表音主義にしたということだが。
なるほど、この方が確かに理解しやすいのだろう。ロジックもシンプルだ。
(とはいえ、歴史的仮名遣いがそんなに複雑だとも思えないのだが)
特に、この時代、全く眼中になかっただろうが、音声を介するメディアがでてくると、その方がより高いはず。
それだけでなく、ワープロの時代も、文字変換が容易だったろう。
(歴史的仮名遣いだと、「位」「暗い」「くらゐ」「くらい」など、イロイロあって大変だ)
次々と出てくる、意味がありそうで微妙な表音をもとにした新語などはどうなるのだろう。個別規定しなければならないとしたら、大変なのではないだろうか。(あまり思いつかないが)
まだ、出来上がっていない技術として、音声の文字変換などの場合も、(もちろん文字変換すれば良いのだろうが)大変にはなる。入力作業も複雑になる。


こんなのは、すずめごときが思いつく範囲だが、本当は、もっともっといろんな問題があるに違いない


当時、国語国字問題が議論された時、反対論者の言い分には、
「この仕組みでは表記できないものもある」
というのがあった。
今の私たちには、今の表記法で書けないものがあるというのは、あまり想像ができない。が、音声をベースに割り切ってしまった時、「落としたもの」はたくさんあったのだろう。
表記とともに、その「落としたもの」を理解する中枢の部分も失ってしまった。

おそらくそれは私たちだけではない。
戦前の教育を受けた人たちもそうだ。
彼らの中にも、今、歴史的仮名遣いを使って書く人は滅多に見ない。少なくとも、きちんとした書面ではそう。
特に、知的関心の高い人ほど、そうではないだろうか。日々、大量に読む新聞や書物の中、忘れてしまっても不思議じゃない。彼らも今の文化の中で生きている。

日本語をユーザビリティという視点で考えた時、確かに、今、私たちが使っている形の方が上だろう。
特に、コンピュータの出回った最初のころ、
「日本語というバリア」
ということがよく言われていた。今も、英語で保存するより、遥かにメモリー量が多くなる。
現代のように、膨大なデータが日々蓄積して行く中、サーバの物理的な大きさもバカにならないはずだ。

このミクシーにしても。
日本語を複雑にするということは、ただでさえ負担の大きな日本語データを更に大きくしてしまわないだろうか。たとえば、「渡辺」のナベという漢字は27種類以上あるという。こんなのをフォントで搭載し、使い分けるのは大きな負担だろう。戦後、それを全部割り切った。それは問答無用スタンダードだった。なぜなら、彼らは『教育』を人質に取っていたから。
でも、それは、確かに、現代という時代を乗り切るには一つの正しい「答」だったのかもしれない。

という意味では、結果オーライなんだろうか。

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この時代になってみると、確かに、この新仮名遣いのシステム、そこそこよくできているのが分かる。
特にカタカナ。
これはあまりにすばらしい。

昨今、いろいろな出来事が、グローバル単位で起きている。製品開発も、その元になる概念もそうだ。
だから、いろんな言葉を共用できるのは、便利であり、危機管理としても大きい。学術や技術の用語をすべて翻訳してやり取りしていたら大変だろう。日々生まれる新語に翻訳が付いて行けない。人によって、翻訳の仕方が変わってしまう。
特に、全く新しい概念である場合、新しい日本語を作るのも大変だ。それを回避するためには、日本国共通辞書、みたいなモノを作ってイチイチ、確認していかなければならない。
それを、そのまま、カタカナで表記すればカンタン。シンプルだ。
昔は間違った和製英語があったが、さすがに最近は減ったのではあるまいか。


昨今、もともと、学術や技術の世界でできたモノをそのまま、一般生活社の世界に導入する事が多くなってきた。当然、そのままではカタカナ言葉が多くなる。それを見て、カタカナアレルギー世代は、眉をしかめる。
しかし、実はそんなモンダイじゃないのだ。
たとえば、新しいIT由来の言葉が生まれ、最初は技術者の間で、その生の用語でやり取りされる。この時点で、一般の市民はその言葉の存在を知らない。時々、新聞などが報道するが、その時の呼称は流動的だったりする。そして、その技術が、一般市民が触れられる形ができた時点で、どういう言葉が良いのか、再度考えられるワケだ。そこで、和風の名前をつけるか、洋風をつけるか、結局は広告戦略にすぎない。もちろん、先に触れた商標も考えられた上で。
文化論じゃあない。
もともと、日本由来の概念ではなく、それこそ、グローバル由来のものなのだから。だから、国立国語研究所がカタカナ言葉に目くじらをたてるのも、イカガナモノカ。

その一般へのデビューの時点で、高齢者の介入が必要と思えば、広告戦略的に高齢者でも理解できる日本語風をつけるだろうし、お客さんは若者だけだと思ったら、アルファベット略語でもなんでもつけるのだ。すべての言葉は、すべての人に理解できる必要はない。そんなのアタリマエだ。

カタカナ言葉はケシカランと、市民が主張するっていうことは、技術者/専門家の世界との垣根を自ら高くしてくれっと言っているようなものだ。
その言葉が覚えられない人には、もしかして、その概念そのものが、あまり重要じゃないのかもしれない。
IT用語が覚えられなくても、自分にとって本当に不便かどうか、考えてみてはどうだろう。不要だから覚えられないんじゃないだろうか?言葉の問題じゃなく。人によって必要なものは違うのだから。不要なIT用語を理解するより、道ばたの植物の名前を覚える方が人生を豊かにしてくれるかもしれない。


カタカナという、日本語が持つ、すばらしい機能。
もっともっと、利用してもいい。
古い日本語を壊すという形ではなく、
新しい時代に新しい日本語の機能を発達させるという意味で。


っと、また、脱線してしまったが、遥か昔に、日本の国が文化を犠牲にしてまで作った日本の言語の形、なんて、うまくできているのだろう。。。と、関心せざるをえない。


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