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2011年11月10日 (木)

障害は誰が決める?

なんか、ひっぱっちゃうけど、まだまだ、某講演会のハナシのつづき。

懇親会でみんなで納得してた言葉。
「障害って、誰が決めるのか」

たまたま、昨夜参加して、すずめは終電にちゃんと間に合って帰って来た某人気者Drの忘年会。
こっちは福祉系じゃなくて医療系&ジャーナリズム系メンバー。っていう所での会話と、とっても符号するものがあったんで、書いちゃいます。


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「障害って、医者に決めて欲しくないよね」

そうだ。
でも、実際には、医療の言葉でしか証明してもらえない。
他の障害については分からないが、視覚障害でもそうだ。障害者手帳を取得するためには、視野や視力に関する検査を受け、申請する。視力や視野を測る方法が或る程度あって、その基準もそこそこ明確にされているから、それができる。だがしかし、この「基準」ももともと人が作ったもの。厳密には視野が広くても視力が無い場合と、視野が10円玉位しか無くても、くっきり見える場合。その生活の不便さの内容も要求されるサポートの内容も大きく違うが、同じ評価になったりする。でも、じゃあ、これが不合理だということで、変えたりすれば。。それはそれでまた、ある特定の疾患が優遇されることになり。。。まさに政治の世界。
ということで、医学的な基準というのも、本当はとても流動的な要素も持っている。
実際、障害者手帳を持っている視覚障害者は30万人だが、この何倍もの人々(一説には100万人)が対象になるような状態であっても、手帳は取得していないという。
私はそれがあるべき姿だと思う。
要するに、手帳が必要なら、「視覚障害」という「証明書」を貼ってもらえばいい。メリットが無ければ、貼ってもらう必要はないだろう。あくまで、本人の意思が基になっていればいいのではないか。

昨夜の医療系の人々との話の中でもあった。
アスペルガーって言っても、「タイプ」のようなものもある。それだけのこと。
自閉症にしても、他のものにしても、そういうレベルのものは多い、というより多くの人がどこかにはいるのかもしれない。その中で本人がその「診断名/証明書」が欲しければ求めれば良いのではないだろうか。

と、思う中。いくつかの例が頭にうかんだ。

勉強ができないと叱られる子供たちがいる。そこに、LDという言葉を当てると、「あの子は頭が悪い」ではなく、「学習障害なのだ」ということになる。頭が悪いということは、じゃあ、誰に似たのか、塾へ行かせていなかったからではないか。親が怠慢なのではないか。というような非難になりそうだが、診断名がつくことにより、それを少しは回避できる。場合によっては、学校で特別に補習してもらえるかもしれない。

知人の近所(地方都市)の人で、よく暴力的な問題を起こす子供がいるという。小学校高学年で身体も大きいそうだから、暴力的問題と言っても生易しくないのかもしれない。(人聞きなので詳細は分からない)被害を受けた人に謝りに行く時、親は「うちの息子はXXX(診断名があるらしいが、分からない)なので、あんな事をしてしまうのです。」と、涙を流しながら説明しているという。両親は学校教師なのでこの問題には精通しているのだろう。地方都市のことだ。本当はそんな事を近所に言いに行きたく無いに決まっている。しかし、その子を守るためには、そういう診断名を利用せざるをえないのかもしれない。

もうひとつ、頭をよぎったことがある。昔住んでいた所の隣の家族。
小さな男の子がいたのだが、とても偏屈?なのだ。回るものがとても好きで、回転するものは何でもじっと見つめているそうだ。何時間でも。三角のものも大好き。5歳くらいの頃だろうか、グラタンを作ってあげた時、その話を聞いていたので、人参を三角に切ってのせてあげた。次の日、あの人参がとても気に入って夕べはベッドまで持って行ったそうだ。
友達との関係もエキセントリック。幼稚園の先生からも相当クレームがあるらしい。
「先生は、お母さんの愛情が足りないからだっていうの。でも、もっと愛情をかけてあげなさいなんて、どうすれば良いのか分からないでしょう?」
極普通の家族。経済的にも恵まれていて、夫婦仲も良い。
今思えば、「タイプ」の一つだったのではないだろうかとも思える。

それにしても、よく使われる言葉。
「愛情が足りない」
これは、何て暴力的な言葉なのかと思う。どんな家族にも「ケチ」をつけられるだろう。しかも反論不能。証明のしようがないのだ。
誰でも「愛情が足りないって言ってもどうすれば良いか分からない」のは当たり前だ。普通に家族として生活していれば、自然に愛情を注いでいるのだ。意識的にできる方がおかしい。それを他人が悩みの解決策として言うのは横暴だろう。

しかし、「障害/タイプ」ということにすれば、こんな無責任で暴力的な言葉を回避できる。
確かにそういうものにメリットがある場合もある。
しっかりと状態を把握することによって、始めて見えてくるものもあり、より良い指導もできるだろう。子供の個性をつぶさずに、能力をつけて行く事もできる。もちろん、専門的なサポートの対象になれることは大きい。

けれど、周りの大人たちの無責任な台詞や、冷たい目を回避するために、それを利用せざるをえないとすると、何かおかしい気がする。
犠牲になっているのは子供たちかもしれない。

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