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2011年11月17日 (木)

メディア系ドクター飲み会

昨日は、医療系、メディア系の人たちのディープなディープな飲み会、モトイ、勉強会でした。


皆様、終電ってコトバは辞書に無い方ばかりなので、
なぜか、夜が明けました。


ってコトはともかく。
そのレポート。


先ずは、今回の目玉。
「メディアドクターの試み/ワークショップ」

メディアドクターとは。
新聞をはじめとする、メディアの記事。それは本当に正しい路線で書かれているのか。
それをチェックする仕組みを作ったらどうか?という試み。
今現在欧米の一部では行われつつある。

一つの記事をいくつかのチェック項目に従って、採点する。

新規性
アクセス
代替性
あおりがない
エビデンス
効果数値化
弊害
コスト
情報源
リリース

の10項目。
全員のものを集計し、数値的に評価する。

メンバーは、まさに、実際記事を書いている記者と、書かれている/取材されている医療者。ディープな意見が多く出た。

メディアドクターの仕組みは有効か?
より良い報道の為に、何をすべきか?


全体からの意見は概ね、試み、それ自体はよし。あった方がいい。

記者に専門性に関する「資格」を持たせたらどうか?
テレビ、ネットその他でも必要なのではないか?
こういうチェックのガイドラインなども必要では?


何のかんのと言っても、新聞の切り抜きを持って外来を訪れる人は多い。しかし、それに対する、医療側には温度差のある場合もある。
記者と医療者、もっと交流の場を持てないだろうか(ってココでやってるけどね)
現実には不可能かもしれないけど、企業や職業の枠を超えて、もっと、みんなで記者を共有する事ができないか。

などなど。。。
なるほど、いろいろな問題、があり、その解決策も難しい。
飲み会で、いっしょになったジャーナリストが話していた。
日本の記者の専門性、ハナシにならない低い人が多くいる。
彼女がアメリカで記者をしていた時、向こうの記者たちの専門性の高さに驚いたそうだ。彼女は法学部を出ているが、いつも必ず「自分はメディカルスクールを出ていないのだが。。」とことわっていたそうだ。なぜなら、アメリカで、医療系の取材をする記者の多くがメディカルスクールを出ていたから。
しかし、日本で、医師の資格を持った記者がどれほどいるか。。。
某、大新聞でも、Oさんが知っている範囲で、2人。(ずっといたわけではなく、入ったり、やめたり)
大新聞社はともかく、フリーなんて、ありえないという。


記者の質の低さについても意見があった。
某、「1本の記事で社会を変えた」鳥類系ジャーナリスト。
ジャーナリストの本分は、「批判精神」だと思う。
それがあるからこそ、良い記事が書ける。批判されるべきは、そうではない人たち。
たとえば、特定の医師/取材先の言うことをそのまま垂れ流しする記者もいる。

なるほど、その反骨精神が社会を変えて行く原動力になる。
たとえば、タミフルのように。


さて、すずめの感想。
すずめは、個人的には新聞の報道の質がそんなに悪いとは思っていない。酷いのは、テレビ、その他の媒体。
たとえば、テレビ。その報道、そのものは良くても、それを何度も何度も、同じ映像を繰り返すというのは、別の要素を生む。人は繰り返し繰り返し刷り込まれると、違う感覚を持ってしまう。
そういうのも含めて、こうした新聞以外の媒体の低質さ。昨今、目に余るものがある。
もし、新聞報道がメディアドクターのチェックを受け、高品質のものになったとしたら。。。
ある意味、優等生的報道ばかりになる(かもしれない)

しかし、テレビなどのメディアで、なぜ、あんな低質な、ばかばかしいとも言えるものが受けるのか。
「納豆のダイエット」「アガリスク」
間違っているということは、みんなうすうす知っていたのでは無いだろうか。それでも、信じることが楽しかったのでは?納豆で痩せられるなら、そりゃ、良い。健康に良いのは確か。安い。誰でも手に入る。もともと、納豆を食べるような和風の食生活は身体によさそう。
だから、信じることをしやすい。(これが、キャビアが痩せると言われても、そうヤスヤスとはノラないだろう)確かにその報道は間違っていたが、しかし、それは大衆の欲望に沿っていたのではなかったか。
その他の我々が「低質」として眉をしかめるものも。

もし、新聞がメディアドクターの仕組みで良質な記事のみ提供するようになったら、こうしたアヤシイものは、すべてシャットアウトできる。
しかし、大衆って、そんな上品な要素だけじゃない。そうじゃない、しかし、本当は大衆に欲せられているものは、どこへ行くのか。。。
メディアドクターが介入した媒体だけが、孤立した優等生になってしまわないだろうか。。。。

私たち、そんなにバカでもないが、賢くないし、ましてや品行方正であったりしないのだ。


------


さて、お次は勉強会レポートをちょっと。
優等生じゃないすずめの記憶力からなんで、例によって突っ込み満載かも?


人気者、Yさまの、レクチャー。
Yさま、「法則」作りに凝ってるとか。
本当のボランティアは自分がボランティアであることに気づかない
ボランティアは伝染する
えーっと、あと、何だっけ?
すずめの記憶力、お粗末。
一つ補足説明。
ここで言うボランティアは、「心優しき挑戦」
人生をかけた内部告発であったり、命を支える活動であったり。戦う自主的挑戦。

っていう、その夜締め切りという、本の原稿の味見。
おいしかったかも。


今回、ちょっとおもしろかったのは、
出生前診断のレクチャーと、
新生児医療の現状
別の現場から発せられた二つの物語。

出生前診断。遺伝外来には、いろんな相談が来る。
生まれる前から、いくつかの先天性の疾患に関しては分かるのだ。
それを、どうするか。
どう、決めればいいのか。
もちろん、最後は個人が決定する問題。
でも、知らなかったら、受け入れるしかないものを、
医療は知らせることによって、受け入れないという選択肢を与えているのだろう。
出生前診断という最先端医療と、家族という物語。
かけ離れたものを、どうやって折り合いをつけさせるのだろう。


もうひとつのテーマは新生児室からだった。
昔は助からないはずだった赤ちゃんが助かる。
その一つの物語。
病院に運ばれ、生まれた赤ちゃん。お母さんは帝王切開で大出血。
赤ちゃんは呼吸ができない。。。心停止。

もどらない。

医師は、心臓に直接針を刺して、薬を送る。この処置は、そう誰でもできるものではない、特殊な技術。
しかし、その時、医師はベストを尽くすべきだと思った。
なぜなら、お母さんは帝王切開のあと、まだ回復していない。せめて、赤ちゃんをその時までもたせてあげたかった。。。。
赤ちゃんの心臓は鼓動を始めた。
奇跡。


しかし、脳波はもう、無い。
両親と医師たちは、何度も話し合った。
この子は、もし、回復しても、笑ったり、歩いたりすることは無いだろう。
機械を外せば生きてはいけない命。それをどうするか。
自然に神の手にゆだねるべきか。。。

両親の下した結論。
生きたいと思っても、生きられない命のある中、この子はやはり、生きている。
生きる力がある。
だったら、生きていて欲しい。
赤ちゃんは、今、2歳?。
まだ退院はできない。でも、兄弟と、家族の中で、育まれている。
笑うことなく、食べることも無いけれど、成長し、生活している。


すずめの感想。

この選択、どうなんだろう。
先の出生前診断の話と一緒に考えると、何か、咀嚼できないものが残る。
家族の幸福な時間は否定しようがない。
人それぞれ、選択は違う。
どちらの選択をしたとしても、正しいとは言えないのだろう。


だとしたら、誰かに決めてもらえないのだろうか?
たとえば、Act of Godのような力に。それだったら、正しいのか、間違っているのか、結論を下す責務を回避出来る。だがしかし、今、人が、God Handを持ってしまっている。だから、自らが下すのが、神の技なのだろう。
これから、もっともっと、神の技を私たちは手に入れるのだろう。その度に、同じ噛み砕けないものを口に入れてしまうのかもしれない。


-----


さて、詳細ははばかられるものもいっぱいの、飲み会レポート。


どっかへ書いたとおもったんだけど、
めぐみ在宅クリニックのNHKの番組の感想。
。。。探したら、建築家のSEIJIさんへのレスだった。
SEIJIさんの本文はこちら

「看護(介護)はアートです」(在宅看護について、建築家の視点から)

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=728167266&owner_id=14668647#comment

そこにあった統計だけ拝借。


死亡場所の構成比
        病院   福祉施設   自宅
オランダ    35.3   32.5     31.0
アメリカ    41.0   22.0     31.0
日本      81.0   2.4      13.9


すずめのレスをコピペ。(日記本文へのレスなので、ちょっと?なところがあるのはご容赦(^^;
-------

ちょうど夕べ、NHKで在宅で最期を看取るという番組をやっていました。
出ていらしたO先生はすずめともお友達なので、見ちゃいました。

とても自然な死。
「痛みはきちんと取っていきますから。」
みんな、普通に家で暮らし、時々、O先生が訪ねてくる。
お風呂に入りたい。
足の痛みが取りたい。。。
昨日はおそうめんを一杯食べられた。。。
そんな「介護」があって、医療的ケアがあって、生活があって、
そして、死がある。

横浜の普通の住宅街のシーン。たくさんのお家が並んでいる。ひとつひとつに生活が有るんだなあって。その中にはいくつかの「死」もあって。

なるほどなあって、思ってみました。


O先生、
13.9%の人たちを支えてるんですね。
彼らの死の形を見ていると、人にとって、
「家」というものの大切さ、分かります。


「アート」
それって、公のものではなく、
個人の「私」のものだからかも。
だから、究極の個人に寄り添っていくのかもしれません。
その「私」の、まさに宿る所が、「家」なんでしょうね。

--------

って、話は飛んだけど、
そのO先生とシミジミ飲んだ。

その中の言葉。
『あの番組、とても良い話でしたけど。。。』

本当はもっともっと、大変な事がいっぱいありますよ。
やっぱり、死にたく無いというようなのも。

その時、どうするのか。
O先生はテーブルの絵を描いた。
テーブルを支えるには3本の足があればいい。
テーブルの板は、「人」足は支え。人は支えられて生きている。
その足、たとえば、人の支えであったり、夢であったり。。。そういうのが3つあって、安定している。しかし、ある日、その支えの一本を失ってしまう。たとえば、癌による余命の告知によって。
支えの1本である、「将来の夢」が短くなってしまう。もしくは無くなってしまう。
そうすると、板は平安を保っていられなくなる。
しかし、失ったその支えを取り戻すことはできない。
残った1本で、その人を支えなければならない。

どうすればいいか?
O先生は問いかける。
「その1本を太くすればいいんですよ。」
よくある、一本足のテーブルの絵になった。

なるほど。
その一つの形が平安な死であるのかもしれない。
後で思いついたが。。。四本足のテーブルは、四人用だ。3本足は3人座るのにちょうどいい形。
足の位置が、座る人の数や形も規定してしまう。しかし、1本足のテーブルは、何人でも集まれる場にすることができる。大きくはできないけれど。

『でも、周りの理解とか、難しいんじゃないですか?イメージとか大切かも』
「そうなんですよ!イメージって、大切」
O先生の名刺には、ウサギおじさんの絵が描いてある。
『めぐみ在宅」ってコトバ、流行らせたいって思ってるんですよ。(すずめが時々ウワゴトに言う、『ロービジョンってコトバ流行らせたい』とおんなじ(=^_^=)
『あそこのおじいちゃん、『めぐみ在宅』してるんだって」
とか、
「うちもそろそろ、『めぐみ在宅』しようかと思って」
っていう風に使われたら良いなって。

命が自然に生かされ、そして終わる形、
その線の連綿を、丸い面にして、平たく支える形。いいなあ。

って、この日、いつもは品行方正なすずめも朝帰りしてしまいましたとさ。

----

まだまだ続く、昨日の続き

宴会レポート。
そうそう、特筆すべきは、
場所は、「すずめのお宿」
んもーっ、泊まっちゃおうかしらん。


あんまり盛りだくさんなんで、もー、ナニガナンダカワカラナイけど。
思いつく範囲で。

ここんとこ、メーリングリストがめちゃくちゃ盛り上がってて、また、内容が濃いから、すずめも「読み物」だと思って読んでた。盛り上げてるのは、日本の中でも、その道のディープなオタク関係者の面々。一般の場でコレをやったら、完全にKY。だから、ここでしかできない。
でも、まあ、ものすごーーっく濃い内容がやりとりされているにも関わらず、そのメンバーは確かに限定的。すずめも、時々、ちゅんっ♪って口を挟んだが。。。ついて行けるようなのは書けない。
そーゆーの、どうなんだろう。ってご当人さまたち、遠慮がちに議論。
ブログとかにしようかなあ。でも、放火されちゃったし、また放火されたらやだなあ。だったら返信不可能な形にしようかって思ったりとか。
うーーん、それはそれでもいいかもしれないけど、ここのメーリングリストは、レベルも決まってるし、クローズだし、今の形も良いんじゃないかなあ。でも、まあ、過去ログが見やすく無いので、蓄積って意味では今ひとつではあるけど。な~んて。彼らも遠慮してる。
でも、そりゃ、実際に会って飲みながらやるのがいいだろうけど、そんなチャンス滅多に無いし、あっても、みんなが観戦?できないじゃん。

個人的な意見だけど、これからも、じゃんじゃんやって欲しいなあ。楽しみにしてるので。レスしなくても、興味ある人はみんな読んでる。ウザイって思う人もいるかもしれないけど、そういう人は読まなくても良いのがメーリングリストの良いところ。少なくともすずめには(おそらく多くの人には)ものすごく勉強になる情報網。まだ、世に出る前の流れが見える。

議論がヒートアップすると、時折、個人的中傷や、罵倒に走ったりする。過去にも、そういうのがイロイロあった。時折、頭がカっとしちゃうのか、行き過ぎてしまって、売り言葉に買い言葉みたいになって、フレア。本人がイケナイって思うけど、自滅してしまう人もいた。自業自得とも言えるかもしれないけど、そういう人が生まれないようにフォローしなければならないって思うムキもいるのだろう。
けど、このメンバーなら大丈夫。ヒートしてるように見えるけど、それは、視点の違い。みんな医療やメディアの問題を建設的に良くしようという熱い思いに満ちている。こんな難しい問題を論じる時、カウンターアーギュメントが無い方がおかしい。誰かが何か言うと、みんなでヨイショの仕合してるようなやり取りなんてキモイじゃん。
な~んて、すずめの主張。

さて、この夜、酒池歌林の宴。
歌はチュンチュンしか歌えないすずめは、他の方々のアラレもない姿に、脱走して、静かな部屋でまったりしていました。そこでの会話いろいろ。

医療事故。
報道されると、新聞以外のメディアでもいろいろ論じられる。2チャンネル以外にも、参加者が医療や法律などのプロばっかりに見える所もある。
怒りを感じるのは、そんな所でも、デタラメな情報がまことしやかに言われ、バッシングが起こる。すずめも、そういうのを読んでいて、もう、読むだけでも、ムカムカするようなものがいっぱいだった。関係ない第三者が読むだけでもこれだけ溜まるんだから、当事者にとっては、どんなに不快だろうか。だって、明らかにウソが語られ、それをもとに罵倒されてる。「そんなに違う!」と言い返したいじゃん!!

ずっと、疑問に思っていた割り箸の件を聞いた。
あの事件、もともと、どこへ運ばれたんですか?
最初、救急でもと言われたのだが、意識もある(返事をするように見える。。。?)ようなので、耳鼻科へ。
それって、トリアージミスとも言えない?
もし、救急のプロが見ていたら。。。。別の判断をしたかも?
そう言うと、事故というのは、そういう、いろんな偶然の、回避できたかもしれない、たくさんのポイントが偶然、悪い方へ行ってしまって起こる。だから、普通では起こりえないことが起こるのだ。
患者取り違えの時も、何人もの人が一瞬、??っと気がついていた。しかし、「まさか」と思った。普通は、その中の一つが「!」となり、事なきを得るのに、なぜか、ありえない偶然が重なってしまった。

しかし、医療という行為は、「医療過誤」と言えるものに満ちているという。どんな死も、何らかの機械的な方法をとれば、その死を10秒は延ばせる。ということは、「10秒前の死」というのは、過誤といえるのかもしれない。訴えようと思ったら。

例えば、高齢者への手術などの処置。特に末期で、治療ではなく、苦痛を取り去るためのものの場合どうだろう。簡単なものでも、死を目前にした体力の中、100%の成功率はあり得ない。一度は成功しても、2度目も成功するとは限らない。でも、1度成功すると、2度目も同じように成功して当たり前という感覚が生まれてしまう。でも、確率は同じなのだ。常に100%では無い。
それを過誤/事故と呼べないのは自明だが、しかし、「悔い」は残ってしまう。

そんな話をまったりと。


で、結局、
夜が明けてしまったのでした。


あっ、そうそう、
すずめも法則発見。

夜中にタクシーで帰るより、始発で帰った方が交通費が安い。

ちゅんっ

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