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2011年11月23日 (水)

日本海海戦1:何となく調べた

2010年11月08日23:52
何となく覚え書き

何かの拍子に、
バルチック艦隊を日本海軍が破ったってハナシに興味を持った。

唐突だけど。。。


で、何となく調べてみたので、その資料のそのまんま羅列。


おもしろいなって、思ったコト。

湾岸戦争の時、
「情報の戦い」だと言われた。

この、
日露戦争のころ、
100年以上前の日本。
バルチック艦隊を破ったのも、情報の力だった?


この時、バルチック艦隊は、北から来るか、南から来るか。。。分からなかった。
それを見つけたのが、信濃丸。
そして、それを打電した。
その無線機。

ほんの6年前、
1895年、イタリアのマルコーニが無線通信実験に成功する。
マルコーニの公開実験を小田切延寿技師は詳細に報告し、
そして、そのわずか2年後に1896年に逓信省・電気試験所長の浅野応輔は無線電信の研究を所員の松代松之助に命じ、松代は僅かな資料を頼りに手探りで実験機材を造った。翌1897年に築地で追実験に成功。
そのころ、日本はグラスゴーに「敷島」を発注しており、無線機はマルコーニを検討したが、高価なので断念。自力で作ることになった。1901年には150kmの交信能力を持つ34式無線機を制式化。1903年には長崎・台湾間の1200kmに達し、36式無線電信機を完成。
海軍はは直ちにほとんどの連合艦隊の艦艇に装備された。


ロシア側もバルチック艦隊にマルコーニの無線を配備したが30%ほどであり、説明に来たイタリア人技師は待遇の悪さに帰ってしまい、使いこなせていなかった。

という背景の中、日本は、
情報戦で勝利した。


なんか、おもしろい。


ちなみに、誰でも知る通り、
この後、日本はダメダメで、その後のポーツマス条約でも、
ばっかみたいな、ご褒美しかもらえなかった。

でも、考えてみると、
この時、日本がやったコトって、
ホントはショボくて、イギリスの手先になったに過ぎないのかも。

その中で、
唯一、
彼ら、技術者たちが、
プロジェクトXみたいに、がんばったんじゃないかな。
そして、彼らの足跡を、この後、たくさんの無名の技術者たちが、歩んでゆく。

って、なんか、かっこいいなって思ったり。


以下、それを調べた資料。

http://ja.wikipedia.org/wiki/三六式無線機

三六式無線機(さんろくしきむせんき、公式名称は三六式無線電信機)とは日本海軍が日露戦争当時以降使用した無線機である。三四式に次いで制式採用された日本海軍で二代目の実用無線機である。1903年(明治36年)に採用された。
採用後直ちに戦艦(「三笠」など)や巡洋艦等大型艦艇より順次搭載され、日本海海戦までに仮装巡洋艦も含む駆逐艦以上全艦艇に装備された。


日本海海戦 [編集]
1905年5月27日午前2時45分、仮装巡洋艦「信濃丸」(艦長成川揆海軍大佐)が北航する病院船「アリヨール」の灯火を発見、更に接近し敵大艦隊の存在を確認後の4時45分、第一報にて「敵艦見ユ」を意味するモールス符号による略語「タ」(―・)の連送で始まる「敵艦203地点ニ見ユ0445」を打電した。この通信は巡洋艦「和泉」による中継を受けて連合艦隊司令部が座乗する旗艦「三笠」へ到達。これを受けて司令長官東郷平八郎大将が艦隊の出動を直ちに下命、同艦より大本営あてに「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電し報告した事で、日本海海戦が開始された。戦闘中も連合艦隊が無線電信を有効利用した事は、戦闘の有利な展開に大いに寄与した。
実物を忠実に復元したものが現在横須賀の記念館「三笠」無線電信室の中に展示されている。


http://homepage2.nifty.com/nakagen29/05.htm


05・・・日本無線史の落穂拾い的考察 (1)
イタリア人マルコニーにより無線通信が発明されたのは1895年のことでした。その情報は
直ちに日本に伝えられ、2年後には早くも実験試作が行われました。
1896年に逓信省・電気試験所長の浅野応輔は無線電信の研究を所員の松代松之助に命
じ、松代は翌1897年に実験に成功しました。松代は僅かな資料を頼りに手探りで実験機材
を造り築地海岸で実験を行いました。

この一事は、その当時の日本社会の実力からすれば、驚嘆に値すると思われます。明治
政府が1868年に成立してから、近代国家の建設を目指して先進国に追付こうと諸制度や
産業を整えていた時代ですから、今日では日曜大工店等で容易に入手できる部品・材料
の類も総て自力で調達しなければならなかった筈です。

科学・技術を駆使できる技師の養成を目的に工部大学校が創立され、日本初の工学士が
誕生したのが1879年でした。開学当初の教授陣は総て英国人であり、実験機材は総て輸
入に頼っていました。松代が無線機の実験をしたのは、そんな時代から20年も経ていなか
ったのですから、先ず実験機材を準備する事が大仕事でした。


..............
左図は浅野応輔、中図は松代松之助、右図は木村駿吉

月島で実験した無線機材
また、文献資料の類も手に入れるのが大変でした。複写機もフアックスもインターネットも無
い時代です。輸送手段にしても航空機は未だ出現せず、大洋航路の船舶しか有りませんで
した。そんな環境の下で、世界最先端の技術を独力で追随したのですから、その努力には
敬服します。

松代らは僅か2冊の冊子を頼りに精力的に研究を進め、1897年11月には早くも月島・金杉
沖間1.8kmの交信に成功しました。次いで1898年12月には月島・第5台場間3.4kmの実験
にも成功を収めました。マルコニーの発明が公表されてから、2年に満たずしてに独力で
追試に成功した例は世界的にも稀であったと思われます。

この成果は専門誌である、「電気学会雑誌」に発表しましたが、それだけに止まらず新聞社
や陸海軍を招いて公開実験を行いました。先端技術を広く一般に知らしめる広報活動は今
日では当たり前の事ですが、当時としては画期的な試みであったと思われます。この公開
実験は特に海軍の関心を高め、その開発を促進する結果を齎しました。

その頃、海軍は戦艦「敷島」を英国に発注していたので、無線機に関して英国マルコニー社
に打診しましたが、非常に高価であったので自主開発に方針を変えました。松代松之助の
移籍を要請し、同時に第二高等学校教授であり無線技術の研究をしていた木村駿吉を招
請して体制を整えました。組織としては外波内蔵吉少佐を委員長とする無線電信調査委員
会という形をとりました。

海軍大学で大臣臨席で行われた無線実験
松代・木村を中心とする研究活動は着々と成果を上げ、1900年には海軍大臣臨席の下に
実験を行い、1901年には150kmの交信能力を持つ34式無線機を制式化するに至りまし
た。マルコニーの無線通信成功の報を得てから僅々6年にして、極東の一小国が独力で開
発し実用に供したのですから、担当者は超人的な努力を重ねたと思われます。

一方、逓信省における研究は佐伯美津留に引き継がれ、こちらも成果を上げて行きまし
た。1900年の交信距離は、18kmから50kmほどでしたが、1903年には長崎・台湾間の1200
kmに達しました。この時に夜間の交信は出来るが昼間は困難であるという現象を発見し
ました。電波伝搬データの第1号と見ることが出来ます。

海軍はさらに開発を進め1903年には、より高性能の36式無線電信機を完成し、370kmの
交信能力を備えるに至りました。この無線機には安中電機製作所(現在のアンリツ電気株
式会社)の開発したインダクション・コイルが組み込まれた事は特筆に価します。また電源
としては島津製作所の創案による蓄電池を使用しました。この事は幾つかの主要部品が民
間の企業により製造できる段階に達した事実を明示しています。

バルチック艦隊の続き編集する2010年11月08日23:53
資料のつづき

.....
左図は36式無線電信機のレプリカ。右図は安中 電機製のインダクション・コイル

36式無線電信機の回路図
この36式無線機は直ちに連合艦隊の艦艇に装備されました。主要な艦から始め、日本海
海戦の直前には駆逐艦に至る殆どの艦に装備されました。すなわち1905年5月には、戦
艦・巡洋艦・哨戒艦は100%、海防艦・砲艦は88%、駆逐艦は85%という数字でした。
この装備率は世界最高の値であって、世界最強を呼号した大英帝国海軍でも80%程度で
したから当時の関係者が如何に先見の明があったか、果断な実行力があったかを如実に
物語っててます。

軍・官・民一体となつて開発・整備された36式無線機は、日本海海戦において期待に背か
ぬ働きをしました。欧州から回航して来るロシア・バルチック艦隊を迎撃すべく布陣した連
合艦隊は70余隻の艦艇を哨戒に当てましたが、その中の信濃丸が五島列島・白瀬島西方
海域でロシア艦隊を発見、直ちに「敵艦隊発見」の打電をしました。この時、連合艦隊の旗
艦・三笠との距離は185kmほどでした。逸早くロシア艦隊の位置・動向を知った日本艦隊
は優位の立場を占め、海戦史で最大かつ完璧の勝利を収めました。

この際に相手のロシア艦隊も無線設備は有りましたが、有効に使われることは有りません
でした。装備率は30%ほどと伝えられ、機材の能力も36式無線機よりも低く、将兵は操作
に熟達していなかったようです。真偽のほどは確かではありませんが、指導のために乗艦
した英国マルコニー社の技術者が待遇の悪さに怒って途中で退艦してしまい、遂に使いこ
なせるレベルに達しなかった、という珍談も有ります。

また、ロシア艦隊は信濃丸の発した電文を傍受はしたが、何らの対策を講じなかったと云う
話も伝えられています。その一つは、妨害電波を発して、その後の交信を不能にしようと艦
隊司令長官に進言したところ、「そのような卑劣な手段は光輝あるロシア艦隊として採るべ
きでない」と却下されたとの事です。その2は、既に日本海軍に位置・進路を発見され臨戦
態勢に入ったにも関らず、ロシア艦隊の無線封鎖を続けたために艦隊内の相互の連絡が
不十分であった事です。

上図は哨戒艦「信濃丸」、下図は戦艦「三笠」の模型
大勝利を得た連合艦隊司令長官・東郷平八郎は哨戒艦信濃丸の功績に対して感状を授
け、そのを讃えました。また作戦計画を推進した主席参謀・秋山真之は36式無線機の開発
に尽くした木村駿吉技師に感謝の書簡を送っています。この事は開戦に先立ち開発整備し
た無線通信機が、実戦に於いて極めて有効に働いたとしての高い評価を示すものです。
世界の戦史上、初の電子情報戦であり、その成果は劇的と云えるものでした。以来、列強
は競って無線通信技術の軍事への導入を図りました。

当時は開発途上の東洋の一小国である日本が、殆ど独力で先端技術に追従し大量に整備
し、それを作戦に活用して勝利を収めたのですから、世界を驚倒させた事は想像に難く有り
ません。前記の秋山参謀は木村技師あての書簡で 「いかに威力の大きい大砲・魚雷など
の兵器を持ち、そして強大な軍艦、かつ高速の軍艦といえども無線機が無くてはその能力
を充分に発揮できない。したがってその重要性は・・・・」と記しています。
まことに歴史に燦然と輝く名参謀の至言と云うべきでしょう。

/homepage2.nifty.com/i-museum/19460000sinano/sinano.htm

http://homepage2.nifty.com/i-museum/

●無線電信と日本海軍
日清戦争が終わった1895・明治26年,イタリアのボローニャ出身の青年が自宅の窓からほんの数キロ先まで無線でモールス信号を送ります.有名なマルコーニによる無線通信実験が成功した瞬間でした.
マルコーニは各地で公開実験と講演をくり返しますが,その実験を熱心に見学し,観察し、報告を本国に送る日本人の姿がありました.日本海軍の小田切延寿技師の報告書には「空中線の長さが150フィート、電池50個、10吋直径を有するインダクション・コイルを使用」といった詳細な技術情報が含まれています.日本海軍は明治30年には月島海岸で4年前のマルコーニと同じ水準の実験に成功,大変な熱意を注いでこの新世紀の技術開発に取り組むのです.
●永井荷風のアメリカ
1903年、永井荷風は北米航路の信濃丸でアメリカに渡ります.「日本人による最初の異国遍歴の物語であり、日記文学(末延芳晴)」といわれた「あめりか物語」を書く大作家も,この頃は「新形式の伝記小説を」創造しようと「徒に苦悶の日を送」(『西遊日記抄』)っておりました.
荷風がウォール街の銀行の一職員として働くのは日露戦争講和後のことです.日露戦争は情報の戦争でもありました.タイムズの特派員はロシアの旅順艦隊と日本海軍の戦闘情報を無電でロンドンに送るのですが,戦闘開始から1分以内に新聞社にその報せが届いたのはこの時が史上初めてだといわれています.信濃丸と僚艦には日本海軍が心血をそそいで開発した無線機が搭載され,信濃丸は日本海に向かうバルチック艦隊をいち早く発見して「敵艦見ユ」という有名な電信を発します.世界戦史上初めて無電が使用されたのです.


小田切延寿


http://abocavo.blog.ocn.ne.jp/abocavo/cat2250308/index.html


2005-11-09
テレグラフに関する本二つ

 今日、ゲットしたのは、『日本無線史』という非常にマニアックな本。
 発行は、日本電波監理局、昭和27年。全十二巻揃うと、三十万円くらいするのだけど、今日頂けたのは巻四、十、十一、十二の四巻だけだった。……誰かがすでにもうゲットしてしまったのかなぁ、それとも来週行けば、他の巻があるか。
 ただ、ボクが見たいと思っていた第十巻が手に入ったのは、とても嬉しい。
 この巻は「海軍無線史」と題して、上下二段組み677頁の分量が書いてある。
 明治三十二年、イギリス英国公使館付川島令次郎が、イタリア人マルコニーの無線電信による電信通信の発明を海軍大機関士、小田切延寿に報告するところから、昭和二十年終戦までの海軍における無線電信の方法とその改良、また教育、国家予算などに関することである。
 読んでいて(と言ってもパラパラと興味があるところを捲っているだけだけど)、時々ボクが生まれ育った佐世保という地名が出てくること。
 大正十五年一月二十九日から二月五日までの間、東京佐世保間に於て波長二〇メートルの短波及び波長五メートルの超短波を用い、短波空中線に関する実験を行い、次のような結論を得た。……等々。

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