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2009年6月 7日 (日)

足利事件:驚愕の経緯

菅谷さんの供述、驚いた。


今、テレビのサンデープロジェクトを見ながら書いている。
ちょっと驚いた。

裁判所批判があったが、本当に、批判できるだろうか。

後で、もう一度よく調べてみたいが...
番組を見た限りで書くと。


実は仕事しながら見ていたので、最初の何分かは分からなかった。私が見たのは、
まず、菅谷さんが女の子をパチンコ屋さんで誘って、河川敷まで連れて行くという
菅谷さんの言葉だ。

私はバイクで通ってたんですよ。
女の子がパチンコ屋さんにいて、
「乗るか?」と聞くと、うんと言うので
河川敷っていうのは、。。ってなってるんですよ。。。
(できるだけ記憶に沿って書いているが、間違いはあるかも)


一瞬、すずめは耳を疑った。

この人、女の子を連れ出してるじゃん。

すると、隣の弁護士さんが、
「これ、本人がやってるわけじゃないんです。でも、本人はこういう風に裁判でも言うんです。」

要するに...上の本人の言葉は、警察検察で、何度も何度も言わされつづけ、本人の頭の中にプリントされてしまった「空想」なのだった。それをあたかも,実際に本人が行ったかのような言葉で話している。なるほど、分かる。
連日の取り調べが、このように人の精神を歪めてしまったのだ。

歪められた跡が分かる気がするのは、本人の説明が、言葉はたどたどしくても、時系列にそってきちんと記述され、それを一生懸命語る表情。確かにそこには違和感があった。

これを裁判でも本人は供述した。
これが、検察によって行われた洗脳の結果なのか、本当の本人の言葉なのか、その差を裁判官が見きわめるのは難しい。

そればかりではなかった。

本人が「やった」というのは、弁護士さえ、事実として認識してしまっていた。
だから、裁判で主張したのは、本人の無実ではなく、「量刑としての情状酌量」
弁護士さえ、やっていたことを前提の弁護。
その上、この供述。

裁判の争点は量刑にしかなくなるのは、当然に見える。

しかし。。。


本人は警察に対しては自白していたが、家族には手紙を書いていて、それには無実と書いていた。
が、それを弁護士は知らない。
何回目かの公判で初めて、
「私はやっていない」と菅谷さんは翻す。

これには弁護士もびっくりだった。
否認を貫くなら辞任するという弁護士

しかたなく、再び、菅谷さんは「自分がやった」と証言を覆す。

しかし、番組に出ていた佐藤氏は、それを知り、面会の際
DNA鑑定をもう一度やってみたいから、自分への手紙の中にこっそり、髪の毛を抜いて入れてくれと言う。
その毛を日大に持って行き、鑑定したところ、検察の根拠となったDNA鑑定に間違いがあるかもしれないという結果が出る。それが7年後。そのころなら、まだ、時効まで7年を残していた。
しかし、本当はこのDNA鑑定は裁判所に証拠として保存されているものと、きちんとした正式の鑑定がされなければならない。佐藤氏は裁判所に再鑑定を請求する。


しかし、驚いたことに、この後の
2000年、最高裁は無期懲役の判決を下す。
理由は、
最高裁は事実の認定には口を挟まない方針。制度上、一審二審でこれを片付けるということになっているというもの。
なので、
弁護士が主張する、DNA鑑定を再度行って欲しいというのは聞き入られなかった。
その後、時効まで来てしまう。

時効になって、DNAの再鑑定は更に難しくなってしまった。
しかし、このサンデープロジェクトで事件を取り上げたことがきっかけで裁判所の方針が変わる。

結果、今回の誰でも知る動きとなった。

一審、二審で裁判所が事実を間違って認識したことは、しかたが無いように見える。
しかし、再鑑定請求から先の司法のあり方には疑問を感じずにはいられない。


謝罪を求める菅谷さん

検察や警察は検討するという事を言っているが、裁判所は司法の独立性があるため、謝罪はしないだろうとのこと。

裁判所には、何もできない。
コメンテータは「人間として謝るべきだ」というが。。。


司法に対する憤りは私も大きく感じる。
しかし、謝罪にどれほどの意味があるのか。裁判官は「個人として」判決を出したわけではない。
司法という国のシステムとして、彼の人生を奪ったのだ。この暴力に対して、
「個人として」の謝罪がどれほどの意味があるだろうか。少しでも癒されるとしたら、それは良いけれど。
そんなのが、購いの一助になるような生易しい暴力では無いだろう。

-----
もうひとつ、
これはすずめ個人の妄想


この事件、鍵になったのは、DNA鑑定だった。
犯人と決めつけたのも、無罪だとした決定的証拠も。

それにしても、20年前といい、800人に一人しか間違えないはずというDNA鑑定がなぜ、間違い、というか、800人に一人の1人側に入っていたのだろうか。
ものすごい確率としか言いようがない。


さて、ここでオマケの妄想。

グーグルアースで「足利市」を見てみた。
見てみるまでもなく、誰でも知るように、足利は関東平野のはずれ。
すぐ山が広がる。住民の多くは、関東の都会へと転出したかもしれない。しかし、もしかして、遠くから転居してくる人はいなかったのではないだろうか?
多くの地方都市と同じように。
だとすると。。。

もしかして、土地の人は、みんな似たようなDNAを持っていたのではないだろうか。
他の地域では、800人分の一の確率であったかもしれないが、
ここではどうだったか。
400分の1? 200分の1?
50分の1だったりしないだろうか?
もっと大きな確率だった可能性は無いだろうか?

だれか、そういう統計、取っていないだろうか。
島のような所であったら、もっと極端ではないだろうか。

この犯罪のように、
限られた地域内での事件には、そういう可能性も考えてみるべきではないだろうか?

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コメント

水無月 様
はじめまして。

こちらの記事を自分のblogで一分転載脳して紹介させていただきましたのでご報告いたします。
下記URLです。
http://goka.cocolog-nifty.com/mojiko/

ありがとうございました。

投稿: うおずみ | 2009年6月 8日 (月) 10時31分

スミマセン、何か日本語が変になってますね。
誤「一分転載脳して」
正「一部転載して紹介させていただきました」
です。

失礼しました。

投稿: うおずみ | 2009年6月 8日 (月) 16時27分

うおずみさま


わあ。
光栄です。
時々、来てやってくださいまし

投稿: すずめ | 2009年6月13日 (土) 13時20分

すずめさん、

DNAの鑑定精度はもっと低いものであったと記憶しています(それでも、従来の血液型依存型の立件よりは遥かに精度が高かった)。当時の僕は大学生でした(しかも人間科学ではなくて、生物学)ので覚えています。

ところで、この件に関してあるニュースキャスターが、「科学も万全ではない」やら「科学にも間違いはある」と言っていたのが許せないのでここに抗議させていただくと、
●DNA鑑定の結果は、当時の信頼性レベルにおいて科学的に正しいものであった。
つまり、現在の信頼性と比較すれば万全とは言えないものの、当時の科学レベルでは一定の確率で万全であり、鑑定方法自体に科学的問題はなかった。
そして、これは確率論の問題であることから、科学に間違いがあったのではなく、確率の判断(証拠能力の検討)に間違いがあったと言える。

以上です。スミマセン。

投稿: Uni●●●●● | 2009年7月13日 (月) 17時01分

Uni●●●●●さまコメントありがとうございます。


>DNAの鑑定精度はもっと低いものであったと記憶しています(それでも、従来の血液型依存型の立件よりは遥かに精度が高かった)。

血液型にしても...
ものすごく高い信頼性において、「違う人」だとは言える。。。だけど「犯人と同一」は言えないわけですよね。もしかして、精度の問題じゃなく...

>そして、これは確率論の問題であることから、科学に間違いがあったのではなく、確率の判断(証拠能力の検討)に間違いがあったと言える。

それは正しいと思います。

要するに。。。」その消去法に見合うだけの他の根拠がどれほどあったのか。。。
この場合、「自白」だったんでしょうか


ただ、「科学」に話を戻すと。。。

もし、上で書いたように、DNAの性質に、地理的な歴史に起因する要素があるとしたら。。。
その信頼性は数値的には半分や4分の1になっていくわけですよね。
そういう調査とか、されてないかなって思います。(個人情報だし、住民の賛同が得られそうもないし)

何となく素人にとっては、
DNA鑑定って「魔法」のような突っ込みのできないもの、っていうイメージが余計、間違いを生んでるんじゃないかなと思います。
この信頼性をどう、使うのが的確かという思考も無く。

投稿: すずめ | 2009年7月15日 (水) 20時59分

すずめさん、

本当にごめんなさい。
もはや日本語に自信がありません。

血液型鑑定だけではA/B/O/ABという区分しかできず、「現場からA型の血が検出されたからA型のオマエが犯人だ!」と言うには乱暴すぎます。日本においてA型は1,000人に40人もいます。しかし、そこにDNA鑑定を掛け合わせることで、当時の技術で(仰せのとおり)1,000人に1人にまで個人を絞り込めるようになったのです(当時としては画期的?)。
問題はこの「1,000人に1人」という確率の有効性です。今では「5兆人に1人」にまで鑑定精度が上がりましたので、それと比較すれば当時の技術は圧倒的に乱暴です。

しかし、まさか真犯人のものと1/1000の確率で合致してしまうとは…。というのが最近ボクが受けた率直な印象です。当時は「ちょっと精度が低いかな」とは思ってましたけど。

投稿: Uni●●●●● | 2009年7月15日 (水) 23時24分

コメントありがとうございます。

>血液型鑑定だけではA/B/O/ABという区分しかできず、「現場からA型の血が検出されたからA型のオマエが犯人だ!」と言うには乱暴すぎます。

今でも、そういう意味では証拠としては使われて無いと思います。だけど、かなり確度の高い根拠として、
「違う」とは判断されてるかなっていう意味で書きました。A型の人はA型の血液を持った人とは同一人物であるかどうか分からないけど、B型の血液は持っていないというのは、確実に言えますよね。

いずれにしても、「精度」の問題というよりも、使い方かな。

>問題はこの「1,000人に1人」という確率の有効性です。


私もどこがボーダーかって、誰にも言えないだろうと思います。他の証拠とどれだけ符号してるかなんでしょうね。

投稿: すずめ | 2009年7月30日 (木) 22時35分

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