« 長崎への旅 被爆マリア 3 | トップページ | 長崎への旅 被爆マリア 5 »

2009年5月 1日 (金)

長崎への旅 被爆マリア 4

ところで、マリアとともに、長崎の問題に対して、もうひとつ、アーギュメントがある。

永井博士の著作。


浦上天主堂のそばには、如己堂、永井博士の記念館がある。
彼に関しては、誰でもご存知だと思うが、
「長崎の鐘」が出版された経緯に関しては、すずめも考えた事が無かった。


以下、WIKIより抜粋。


永井隆の原爆後の発言....「原子
爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。浦
上は神に感謝をささげねばならぬ」(長崎の鐘)と述べ、「原爆投
下は人類の罪悪の償いの生贄」であると主張した。この主張でいけ
ば、「帝国主義侵略戦争を始め、最終的に戦争に敗北し、その過程
で原爆が長崎に投下された」という日本の責任と、「国際法を無視
し、残虐な兵器を用いて住民を虐殺した」アメリカの責任が免責さ
れる。....アメリカの言論統制を潜り抜。。。

-----

長崎の鐘が発表されたのは、1949年。当時はGHQの統制下だった。
1946年8月には書き上げられていたが、GHQの検閲によりすぐには出版の許可が下りず、GHQによるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に発表されたという。


原爆を「神の摂理」としたのは、検閲を逃れるための方便だったのだろうか。


今回、記念館を訪れて、なんとなく、方便ではなく、本心であったのではないかと、すずめ的には思った。

なぜなら、


永井博士は原爆の落ちる2ヶ月前、白血病で死の宣告を受けていた。すずめもこの件は子供の頃読んだ彼の著作の中で記憶している。当時、放射線科医師だった彼は、結核の検診に携わっていた。しかし戦時中のこと、フイルムや現像液が無い。彼はレントゲンに映った像を直接目で見て診断していた。一日に何百人も。
その放射線は彼の身体を蝕み、あと3年の命であると6月、診断されたのだった。

その時に妻緑さんが言ったことが、紹介されていた。

「生きるにしても、死ぬにしても、神様の世のみ栄えの為にね。」

夫の死をもこんな風に受け入れてしまう考え方。
信仰の力は計り知れないが、
私たちとは違った大きな視点を感じる。


原爆の災厄を、

アメリカの「罪」にせず、
神の摂理にすることにする。

これは自然なことだったのかもしれない。


これと似た思想を、ヒロシマも掲げていた。
特定の国/アメリカを敵とするのではなく、
核兵器の禍を廃絶する。


広島の方針は分からないが、
この声は被爆者自身から出たものだという。
永井博士の「神の摂理」論も、
個人的な思想であるのかもしれない。


社会的な「方便」だとする考え方もあるが、
すずめ的には、本音であると感じる。


時を経て今、
核は、どこかの遠い国が昔犯した罪ではなく、
今日、今の時代を享受する私たちにつながる問題でもある。


Naga0413c


11時2分で止まった時計
この後、時を刻むことはない。


.


Book長崎の鐘 (アルバ文庫)


著者:永井 隆

販売元:サンパウロ
Amazon.co.jpで詳細を確認する


英文版 長崎の鐘 - The Bells of NagasakiBook英文版 長崎の鐘 - The Bells of Nagasaki


著者:永井 隆,Takashi Nagai,ウイリアム・ジョンストン,William Johnston

販売元:講談社インターナショナル
Amazon.co.jpで詳細を確認する


この子を残してBookこの子を残して


著者:永井 隆

販売元:秋津書舎
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 長崎への旅 被爆マリア 3 | トップページ | 長崎への旅 被爆マリア 5 »

平和」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1210811/29384090

この記事へのトラックバック一覧です: 長崎への旅 被爆マリア 4:

« 長崎への旅 被爆マリア 3 | トップページ | 長崎への旅 被爆マリア 5 »